時流遡航

《時流遡航293》日々諸事遊考 (53)(2023,01,01)

(専門教育や学術研究問題に思うこと――②)
 筆者が学生だった頃は現代に較べて大学の数もずっと少なく、また、当時の為替レートが1ドル360円だったことからもわかるように、まだ日本の国際的経済力も低い時代だったため教育環境にも恵まれず、高校生の大学進学率は10パーセント前後止まりであった。そもそも筆者の育った離島の中学校の場合などは、90名余の卒業生のうち能力の有無にかかわらず高校に進学できたのは5名ほどで、8割方は当時「金の卵」と称されていた中卒集団就職者として、直ちに全国各地の商工業地帯へと旅立って行ったものである。
大学どころか、高校進学さえもままならなかったわけで、今では当然のように思われている「教育の平等性」という観点からすると、極めて問題も多い時代であった。少子化とは無縁な時代だったうえに大学が数少なかったこともあって、受験競争そのものはそれなりに熾烈なものではあったけれども、現代に見るような至れり尽くせりの進学塾産業などはまったく存在していなかった。それゆえ、個々人の通う高校の正規授業や補習授業をベースにした、厳しくかつ真剣な自主学習によるが受験勉強が基本となっていたものである。
 一時代昔のそのような状況からすると、少子化が進んだのに加え、4年制大学に限っても850校前後が乱立競合するようになった結果、特定の進学先に拘らないさえすれば大学への全入が可能となり、高卒者の進学率も飛躍的に向上した現在の状況は喜ばしいかぎりではあろう。
だが、一方においては、そんな状況に起因する弊害のほうも無視できないレベルにまで高まってきているようなのだ。大学の教育水準が以前に較べて大幅に低下してきてしまい、大学とは名ばかりのところも続出してきているというのである。それら一部の大学ではかつての中学・高校レベルの授業が行われているところもあるとかで、その現状を目の当たりにしてひたすら慨嘆する人々も少なくないという。
例えば、外国語の文献類はおろか、日本語の文章さえもまともに読み書きできない学生ばかりが多々集まる文科系大学や、表向きは工業大学や工科大学を名乗っているにもかかわらず、高校の数理科学レベル、中には中学レベルの数学の授業を行いもしている大学なども存在するようになってきているらしい。また、その当然の流れとして、大学教員の全般的な質の低下が見られるようになってきているのも問題だという。一連のそんな背景もあって、国内の大学の全体的なレベルは昨今著しく凋落の傾向を見せてきているわけなのだ。先端科学分野での学術研究費不足が問題になっているなかで、そんな大学を支えているのが多額の私学助成金だったりするのだから、事態は深刻そのものだ。
 高等教育面での平等性が向上したのは評価すべきだとしても、それによって直接間接の負の影響を被った結果、日本の大学に対する国際間の相対的評価に大幅なレベルダウンが生じているとすれば由々しき問題に違いない。手をこまねいてばかりいて、何の対応策を講じることなくこのまま事態を放置しておけば、国力の衰退に直結してしまうことは明白だ。もちろん、大学進学後、真摯に学業の研鑽を続け、独自の研究遂行に励む学生もそれなりに存在してはいるのだが、東大・京大をはじめとする名門大学の場合でもそんな学生の割合の減少は顕著だと言ってよい。日本の若者らが本来有する潜在的能力が低いわけではないのだが、知らず知らずのうちにその能力の開花が妨げられる状況が続いているとするならば、ここは真剣に対応策を講じることが不可欠とはなるだろう。
(大学教育の中身より卒業資格)
 国内の大学が、全体的に見て、先進欧米諸国の大学のように広く深い学術的知見や教養の修得を目指す場ではなく、先々の就職のために必要な卒業資格獲得の場のみと化し果てたのは、長年にわたって日本社会に定着してきたこの国特有の風潮によるところが大きい。学生当人や先々彼らを受け入れる諸企業や諸組織などにとって重要なのは建前上の卒業資格の有無であって、大学在学中における研究内容や研究実績などではなかった。公官庁や法曹界での仕事に就くことを目指す際には、難関と言われる国家公務員試験や司法試験なるものに合格する必要があったが、それらとて本質的な意味での学術研究の達成度やその世界への適応能力を測るものなどではなく、所詮、実務的知識の表面的な修得度を確かめるものに過ぎなかった。また、一流の公官庁や法曹界を目指す者らが他の学生より懸命に研鑽を積んだのは事実であるが、それとても全体的にはごく一部の存在に過ぎなかった。
 日本の大学制度では、トップクラスの大学であっても一旦入学しさえすれば余程のことがないかぎり卒業することができるから、当然のように、学生らの殆どはクラブ活動や諸々のアルバイト、各種の趣味娯楽の実践などに没頭し、本来あるべき学業の研鑽とは無縁な生活を送るようになっていく。本質的な見地からすれば、諸々の企業や諸組織、公官庁などは、欧米並みに学業の集大成である卒業論文の内容やそれを裏付ける研究成果等をも詳細に評価し、そのうえで人材採用に踏み切るべきであるのだが、新卒者採用に関しては「青田刈り」という行為が当然とされるこの国では、そんなことなどお構いなしであった。
大学1年から3年半ばにかけては厳しい勉学とは無縁な大学生活を楽しみ、大学3年後半から4年生にかけては、まずもって就職活動に専念し、就職先が内定した段階ではじめて付け焼刃の卒論やその代用のレポート作成に取り掛かかり、それによって卒業資格を得るというのだから、見方によっては呆れた話と言うほかない。近年に至って、欧米先進諸国の大学ばかりでなく、アジア各地の大学にもどんどん遅れを取るようになってきたのは、自業自得とも言うべき当然の成り行きではあるのだろう。
 それでもまだ、国内の諸企業に経済的余力のあった過去の時代には、大学新卒の社員らに対し、企業研修という名目で、十分な時間をかけて個々の企業体独自の教育を施すことが可能ではあった。だが、日本の経済力が著しい凋落を見せるとになった近年にあっては、新卒社員らに対して諸企業が独自の研修をすることも難しくなり、国や企業サイドは大学に対して即座に実務に役立つような人材の養成を図って欲しいとの要請をするようになっていった。その結果、本来あるべき基礎学術的研究や、学域を超えて広い教養を身に着ける学際的教育などは軽視されるようになり、ますます大学教育の質の空洞化が促進されていったのだった。その流れの一環として学部在籍中の学生が頻繁に諸企業の見学や体験学習に出向くようなシステムが日常化したのも、実は大学教育の劣化に一役買っている。 
近年は理系分野などでは大学院修士課程へと進む者も増えてきているが、彼らもまた進学後1年もすると就職活動に追われ、本来の専門研究などに専念することなどできないのが実情なのである。大学院修士課程もまた、劣化の一途を辿っているわけなのだ。

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