時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(10)(2015,07,01)

(今となっては貴重な離島生活の体験)
 鹿児島県の離島育ちのわたしが初めてテレビの映像を目にしたのは、中学時代の修学旅行先、別府の旅館でのことだったと前に述べたが、その折の赤面ものの珍談をもうひとつ披露しておこう。当時は鹿児島市内においてさえも、デパートのようなところは別として、一般家庭の多くはまだ「ぽっとんトイレ」、すなわち、汲み取り式トイレを用いていた。ましてや、甑島のようなところに水洗トイレなどあろうはずもなかった。
だが、そこは温泉観光地で名高い別府市のこと、宿泊した旅館にはすでに立派な洋式の水洗トイレが設置されていた。そのため、困ったことには、初体験の文明の利器を前にしてその使用法が分からず当惑する者が続出したのだった。さらにまた水洗トイレの使用法をマスターしたらしたで、その秘技を便器の前で他の者に得意げに講釈する輩までもが現れ、ちょっとした騒ぎになった。なにせ好奇心旺盛な年頃の中学生のことである。なかには面白がって一人で何度も水を流してはその様子を観察する研究熱心な猛者なども登場したりして、遂には旅館の親爺さんからこっぴどく叱られる事態にまで発展した。
国内津々浦々に至るまで汚水処理施設が完備し、清潔な水洗トイレの普及した現代においては想像もつかない話だが、当時にあってはそれが紛れもない現実だったのだ。そもそもわたしが島の中学生だった頃は、自宅のトイレに一定量の汚物が溜まると、貯便槽の清掃を兼ねてそれらを専用の樽桶に汲み取り、畑に運んで肥料として撒くくらいのことは誰もがやる必然的作業であった。都市部なら汲み取り専門の業者がバッキュームカーでやってきて適宜処理をしてくれていたが、その時代の農漁村では自前の処理が原則だった。
また、麦藁や稲藁、野草、葉のついた樹木の小枝などを大量に積み重ね、その上から人や家畜の糞尿を生のままたっぷり振りかけて発酵分解させ、堆肥すなわち「有機肥料」を作ることも各家にとってごく普通の仕事だった。時間を経て完全に発酵した堆肥を直に手掴みし、揉みほぐしながら田畑に撒くなど、日常茶飯事でもあった。現代の都会暮らしの人々は、「有機農業」というとすぐに農薬や各種化学肥料を使用しないで作物を栽培する自然農法を想像し、極めて清潔で健康的なものだと考えるらしいが、そこで用いられる有機肥料が如何にして作られるものであるかくらいは考えてみてほしい。作物はどんなかたちであるにしろ、栄養分、すなわち、肥料なくしては生育しないものなのだ。人工の化学肥料であれ、生物の必然的循環システムを介して生まれる天然素材の肥料であれ、「肥料」なるものを一切拒否するというのであれば、その人は飢え死にするしかなくなるだろう。
 これまた当時の生活に纏わる秘話だが、中学校の家庭科の時間、女子生徒は裁縫や料理の授業が主だったが、男子生徒の場合には学校所有の畑での農作物育成の実践指導が中心だった。そしてその一連の実習授業の中で不可避な作業だったのが、学校トイレの貯便槽からの汚物の汲み取りと散布で、その務めあってこそ、学校のトイレは生徒や教師らの継続的な使用に耐えられるというわけだった。満杯になった肥桶の吊り縄に担ぎ棒を通し、その両端を二人一組になって担いで畑まで運ぶ。その途中、担ぎ棒が微妙に振動するため、桶の中身がピチャピチャと跳ね飛沫が外に飛び出すこともよくあって、その洗礼に与ることも珍しくながったが、そこは皆じっと我慢したものだ。洗礼を避けようとするあまり担ぎ棒を肩から外し、肥桶を落としたりしたら、より悲惨な結果が待っているからだった。
 学校園と呼ばれる畑には、校長・教頭用の特別区画が設けられていて、そこで栽培される野菜類は専ら両先生方のお宅に献上される決まりになっていた。だが、そこは悪戯心と悪知恵の働く中学生のことである。指導教諭の目を盗んでは、生育中のキャベツや白菜、大根などの真上から運んできた生の下肥を浴びせるようにかけまくった。もちろん、それらの野菜が成長する間にも幾度となく激しい風雨に襲われる南国の島のことだし、バクテリア類による分解も進むから収穫時までには自然に浄化されているわけで、わたしの知る限り特に問題は起こらなかった。ともかくも、そうやって十分に栄養分を摂って見事に育ったそれら野菜類を、生徒らは素知らぬ顔で先生方に献上していたわけである。
(自由と平等を主張した割には)
 現代的観点からすると顰蹙ものの、離島でのそんな風変わりな生活体験は、ずっとのちに思わぬかたちで役に立つことになった。赤貧のどん底にあった大学生時代、学費や生活費捻出のために精を出したアルバイトのひとつが夜警の仕事だったことについてもすでに述べた。大型鋼板の切断加工が専門の川崎重工下請会社「東京シャーリング」がそのバイト先だった。当時、江東区汐崎町の運河沿いにあったその工場では200人ほどの工員が働いていだが、正社員はそのうち20名ほどで、残りは手配師らから送り込まれる日雇い労務者たちだった。それぞれの胸中に凄絶そのものの人生ドラマを秘めながら黙々と働く日雇い労務者たちを、正社員の多くは高みから見下すような言動をとっていた。
 その一方で、それら正社員らは、世界平和と自由平等の精神に基づく労働者の権利の保障を声高に訴えかけながら、5月のメーデーがくるごとに大きな赤旗を振り掲げてデモ行進に参加していた。各種の労働運動が盛んだったその時代にあって、それはよく見られる光景だったが、そんな彼らが仕事現場に戻った途端、日雇い労務者を見下すという「ヒエラルキー構造」受容に甘んじる姿がいまひとつわたしには納得できなかった。彼らはわれわれ夜警のバイト学生に向かって労働運動の意義を得々と説いたりもしたものだった。
 そんな疑問を心中に抱くわたしのようなアルバイト夜警に対する連中の仕打ちも相当なものだった。職員が退社したあと、正社員専用の業務室、更衣室、浴室、トイレなどを掃除するのは夜警の仕事だった。灰皿などには意図的としか思われないほどに大量の痰や唾が吐き残され、トイレが異常に汚れていることなどは日常茶飯事だった。だが、少年期に糞尿処理を十分に体験してきたこの身にすれば、そんな灰皿やトイレを綺麗にすることなど朝飯前のことだったので、何時も素知らぬ顔で清掃に務めた。なかでも特に意地悪な人物などは、毎日のように灰皿を青痰、唾、鼻水、食べかすだらけにしていたものだが、ある日から私はその人の目の前で黙って汚れた灰皿を手に取り、流しで綺麗に洗ったあと再びそれを戻してあげるようにした。ところが、そんなことが何回か続くうちにその人物は灰皿を酷く汚さなくなったばかりか、何かとわたしに遠慮するようになった。
 戦後生まれの昨今のおぼっちゃま政治家らが国際平和だの国民の安全だのと唱える様子を見ていると、言動の乖離したかつての下町工場正社員らの姿が重なって見える。庶民を見下し驕り高ぶる彼らには効果的な戒めのお灸でもすえてやるべきではなかろうか。

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