時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(11)(2015,07,15)

(昔日の愚行を回顧し社会の変遷を思う)
 過去の事件や出来事を現在の倫理規範や価値観に基づいて見直すと、愚かで残虐至極としか思われないようなことも少なくない。だが、過去の倫理規範や価値観に則して当時の蛮行の背景や現代の異様な事件の裏面を推測したりすると、自分をはじめとする人間というものの持つ救い難い矛盾や非情さを痛感させられる。そして、いったんそんな目で己の過去・現在・未来の姿を見据えながら、時の流れに伴う一連の人間社会の変容を展望したりするようになると、偉そうなことなど一切言えなくなってくる。今後しばらくは自らの見聞に基づく凄惨な話の幾つかを述べていくつもりなので、読者諸賢のご不興を買うことになるかもしれないが、その点は不束なこの身に免じて何卒ご容赦願いたい。
 過日、千葉県船橋市で野良猫の生んだ子猫数匹を高校教師が土中に生き埋めにするという事件が起こった。その教師は教え子にそのための穴を掘る作業を手伝わせたという。同事件に対するメディアの非難は轟々たるもので、当該教師は厳しい批判に晒された。学校の温室周辺に暖を求めて猫が集り、それに餌をやる人がいるためその数が増え、対応に困ったものらしい。この種の問題への対応経験の乏しい教師は、窮余の策としてその蛮行に及んだのだそうだ。保健所に処置を依頼すべきだったとの声もあるが、本質的に五十歩百歩の違いに過ぎなかったことだろ。
 むろん、その教師の行為は現代社会では到底容認されないものであり、多感な青春期にある教え子らが受けた衝撃も尋常なものではなかったろう。だが、テレビでそのニュースを目にした私は、遠い日のある光景を想い起こした。そして、社会環境がそれぞれの時代の規範に及ぼす影響や、社会環境の変化に伴う規範の変容に深い思いを馳せ巡らせた。
 私が小・中学生だった頃、日本各地の農漁村、とくに離島の村々の多くの家庭では猫を飼っていたものだ。しかも当時の農漁村で猫が飼われるのは、ペットというよりも、ある実用目的があってのことだった。むろん、都会の家庭では猫はその頃もペットとして飼われるのが普通だったし、離島の集落で飼われている猫であっても純粋にペットとして飼われているものもなくはなかった。ただ、多くの家庭の猫の場合はそうではなかった。先日の朝日新聞の天声人語で、「南宋時代の中国で文人たちが飼っていた猫は、鼠の被害から蔵書を守る役目を担っていた。そして、文人のなかには、猫は書物をよく守ってくれるが、貧乏のゆえ食事に魚をつけてその手柄に報いることもできず恥ずかしいとの思いを詩に綴った者もあった」との史話が紹介されていた。だが、隣国のそんな古い逸話にまで遡らなくても、実用目的で猫が飼われた事例は国内にいくらでもあったのだ。
 私が育った離島の半農半漁の村落では、ほとんどの家が米麦をはじめとする穀物や各種魚貝類の乾物などを貯えていた。多くの家庭が自給自足に近い生活を送っていた時代のことゆえ、それらの生活物資は自家消費用がほとんどだったが、一部は換金目的の商品としての役割も担っていた。ただ、貧しい集落のこととあって、外からの有害生物の浸入を防ぐ立派な蔵などあろうはずもなく、それらの物資は俵類や布袋に入れて納戸部屋に積み重ねるか、そうではなくても精々木箱などに収納して保管されるのが常であった。言うまでもないが、またとないそんなご馳走の山を狙って深夜出没するのがほかならぬ鼠どもなのだった。
 当然、各家庭では鼠捕りを仕掛けたり、ネコイラズなどという殺鼠剤を用いて鼠の駆除を図ったりはしたが、しばらくすると鼠のほうも学習を積むため、その攻防戦は容易に決着をみなかった。そして、そんな中で鼠対策に威力を発揮したのは各家々の飼う猫たちであった。鼠を見つけると捕まえてまるごと食べてしまう猫のことだから、ニャーアと鳴き声を立てたり、睨みを利かせながら家の中を動き回ったりするだけでも鼠のほうは怯えて息を潜めざるをえなくなり、ご馳走にありつくどころの騒ぎではなくなったものだ。
(猫がその能力を喪失したとき)
 だが、鼠らを睥睨(へいげい)するそんな猫たちにも、実は思わぬ悲劇が待っていた。素早い動きを見せながら猫が鼠を捕まえるのは若くて元気なうちである。活発な運動を通してエネルギーを消費し、ほどほどに飢えていることも鼠を狙うに必要な条件だった。いっぽう年老いた猫というものは動きが鈍くなって鼠を捕れなくなるばかりか、ほとんど鼠に関心を示さなくなったりもする。そうなると、生活物資を鼠の害から守るには猫の世代替えが必然とならざるをえなかった。ペットフードなど国内にまだ存在せず、しかも、多くの家庭では魚の骨や僅かな食べ残しくらいしか飼い猫に与えられなかったその時代、鼠を捕らなくなったそんな老猫を若い猫と一緒にいつまでも飼い続ける余裕はなかったのだ。
 だからと言って山野に老猫を捨ててみても、家に棲みつく習性のある猫は優れた本能と嗅覚を頼りに、しばらくすると元の家に戻ってきたものだ。そして、新たに飼い始めた若い猫を目にするとそれを威嚇して追い出そうとし、それが叶わないときには共存を図ろうとしたものだ。そうなると困るのは、当然、鼠害防止を目的に猫を飼う人間のほうだった。
 そんな時、その対応に一役買うのがほかならぬ集落の小・中学生たちだった。老猫を処分する必要が生じた場合、その飼い主は近所の小・中学生らに声を掛け、ちょっとした小遣いを渡して処理を依頼した。依頼された男の子たちは、地元の方言でコサガイなどと呼ばれていた縄編みの農業用背負い具にその猫を入れて磯辺へと運んだ。自分の身に何が起こりつつあるかを察した猫は、最後の抵抗を見せ力の限り暴れたりもしたが、結局は眼下に海面の広がる波止場や岩場に運ばれ、リーダー格の男子の手によって海中に投入された。
「犬っ掻き」という言葉があるように、水中に放り込まれても犬は長距離を泳ぐことができるが、水中が苦手な猫の場合は、必死に手足をばたつかせながら大きな円弧を1回から1回半描いて泳ぐとすぐさま絶命してしまう。そんな猫の遺体はそのまま海中を漂ったり、磯辺に打ち上げられたりしながら朽ち果て自然へと回帰していくことになるのだった。
 子供の頃、私自身そのような現場を何度となく目撃し、また一度や二度はその蛮行に直接参加したこともあった。子供同士でも強い連帯意識で結ばれていた当時の田舎にあって、それはごく自然な集団的社会行為でもあったのだ。その頃は都会においても処理に困った子猫を木箱などに乗せ川に流すことなど日常茶飯事であったようだ。ただ、一言だけ断っておくと、そんな経験をもつ子供たちが成人したのち残虐な人間になるようなことはまずなかった。私自身を含め当時の仲間たちは皆、この世の諸々の命の尊さが心底わかる人間へと成長していった。自らの過去の愚かさを教訓として胸に刻み、現在は当然に見える行為でも未来社会では愚行と評価され得ることを日々自覚して生きながら……。

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