(数学という記号言語と日常言語の比較考察)
自然科学や各種工学分野の研究を根底で支える数学は、一般に言語の世界などとはまるで無縁な学術領域だと考えられがちですが、けっしてそうではありません。これまでも幾度か指摘してきたように、数学とは言語の一種にほかならないのです。もちろん、数学や数理科学の理論の展開には日常言語による記述も用いられてはいるのですが、その中核を成すのはほかならぬ多種多様な「特殊記号」の数々です。記号言語と呼ばれるそれら一群の特異な記述用語の活用があってこそ、数学という学問はその存在意義を有しているのです。数学史に名高い天才数学者フリードリッヒ・ガウスが、若い時代に数学研究の分野に進むか言語学研究の分野に進むかで悩んでいたという逸話が伝わっているのも、数学と言語学との間に切っても切れない関係が存在しているからこそであったのです。ただ、その一方で、数学につきものの特殊記号の数々が、逆にその世界の言語性を覆い隠してしまっているというのも事実なのです。
では、数学という記号言語の世界と、日々の会話や諸々の文章表現を支える日常言語の世界とは、なぜ同類だと考えられるべきなのでしょうか。当面、専門的なことなどは捨て置くとし、その問題の本質だけを端的に述べれば、両者の構造が基本的に同じだからということになるのです。日常言語の根底には、諸々の言葉の定義(それが何を意味するかの暗黙の約束事)というものが存在しています。例えば、「赤」や「青」という言葉は、ある特別な色彩領域を表しているわけで、通常、我われはその言葉の意味するところを無条件で受け入れるようにしています。「赤は赤であることを証明せよ」などと求められたとしても、それに応じることは不可能だからです。また、「1」という数の定義なども同様あることについては既に述べてきた通りです。
定義というものは根元的な約束事ですから、それを無条件で受け入れるか、受け入れを拒絶するかのどちらかしかありません。普通、我われはそこまで考えずに妥協しているわけですが、一纏めにして「赤」と称される色にも相対的な輝度や濃度の違いがあるのでもっと厳密な分別が必要だと考える人々などには、より細かに新たな定義の設定を試みるしかありません。エスキモーの人々の間では、我われとは違って「白」という色が何通りにも弁別されていることなどはその適例だと言えるでしょう。
根元的な概念を表す各種の言葉の定義がなされると、それらを連結したり多重に組み合わせたりすることによって上位言語群(より複雑で高度な内容を表す語句や短文)が構成されます。また、そのあとさらにそれらを一段と構造的に繋ぎ積み上げていくこと(言語表現の階層化)によって、個々の文章が創出され、最終的には詩歌、随筆、評論、物語、小説、学術論文などのような体系的表現が誕生していくことになるのです。
日常言語の世界においては、それまでの言語やそれらによって構築された表現体系に、不具合や不十分さ、さらにはまた、社会や文化の変遷に伴う何らかの限界などが生じたりするものです。そして、そのような場合には、根元的な言語の定義に立ち返って新たな言葉の定義をしたり、従来の言葉の定義を見直したり、前衛詩人らがよくやるような型破りの表現体を構築したりする必要が生じてきます。日常言語の世界というものは時代と共に変遷し、何時までも一定の状態に留まり続けることはありません。換言すれば、言語の表現体系やその内容に絶対不変なものなど存在しないということになるでしょう。
(数学の言語性とその特質とは)
では、その一方において、主に記号言語を用いてその理論の展開が記述される数学の世界はどうなっているのでしょうか。小中学生の段階までは通常言語による表記によってその大半が占められている数学の内容も、高校、さらには大学と進むに連れて数値のほか特殊な記号列による記述がなされるようになっていきます。そして、高等数学と呼ばれる段階に達すると、一般人には理解も解読も難しい、風変わりで馴染みにくい記号群と複雑な数値群の並び連なる論述へと変わっていくのです。そうしてみますと、数学は言語表現などとは無関係なものだと見做されがちなのもやむを得ないことかもしれません。
そんな数学の世界なのですが、実は、その体系やそこにおける諸々の記述には間違いなく一種の言語としての機能が秘められているのです。例えば、直線の定義、平面の定義、角度の定義、平行線の定義、さらには、自然数・整数・分数・小数・無理数・実数・虚数の定義とかいったように、日常言語の「赤」や「青」などの定義に相当する各種の根元的な概念についての約束事が存在しています。もちろん、日常言語の場合の定義と同様に、その証明など不可能なものなので、当然のものとしてそれらをひたすら受け入れるしかありません。続いて、それら一連の定義を基にして各種の公理というものが組み立てられます。平面幾何学などの場合にみるように、通常は公理も絶対的に正しいものとして証明抜きで受け入れることが要請されます。公理が定められると、今度はそれらを基にして様々な定理という上位概念が構築される運びへと移るわけですが、それらの定理の成立には「証明」という正当性を説明する前提的な過程が不可欠なものとされるようになります。定理の証明には、それらに先立つ定義や公理が用いられることは言うまでもありません。
そのようにして生まれた多岐にわたる数々の定理には、一度定まるとその後は無条件で正しいものだと承認される特質があり、それらはさらに相互に組み合わされ、より上位の定理や高度な諸概念を構築していくことになります。定理の段階になると、一般の人々にはその正しさが直観的には理解できなくなってしまうのが数学的言語表現と日常言語表現の大きな違いなのですが、構造的に見るとどちらも同じ言語表現にほかなりません。数学における通常の証明問題などにおいては、定義・公理・定理を縦横に駆使してその論理的正当性を説明することが求められるわけですが、その過程は「演繹」と呼ばれています。この数学的論理過程は、根元的な倫理概念の上に築かれた諸々の法規を基に様々な社会の出来事の意義やその適否を問う行為に相当していると考えてもらってもよいでしょう。
日常言語の世界に絶対解は存在しないが数学には常に絶対解が存在すると思われがちですが、もし数学も一種の言語だとするならば、不完全な部分が何処かに生じてくるはずです。そのような場合、それらに対処するには根元的定義の適否判断に立ち返らなければならないと想定されるわけですが、実際その通りなのです。当然、定義や公理・定理の再考や新たな設定が必要となるわけで、それらは「帰納」的思考過程などとも呼ばれています。続いてその具体的な事例を紹介してみることにしましょう。