幻夢庵随想録

《幻夢庵随想録》(第5回)(2019,02,01)

(斜めから見た日韓関係)
 日韓関係は悪化の一途を辿るばかりだが、一連の展開を冷静に見ると、まあどっちもどっちだと言うべきなのだろう。火器レーダー照射問題についての真相などは、芥川龍之介の名作の題名そのままに「藪の中」状態になってしまっている。しかも、自衛隊哨戒機搭乗員や韓国海軍当事者を除いて、日韓両国民ともにその現場に居合わせたわけではないので、結局、それぞれの政府が公表する情報に基づいて事態の正否を判断していくしかない。ただそうなると、相互の見解に大きな齟齬が生じたとき、その調整をするのは極めて困難な状況に陥ってしまう。どちらの側も己の正当性を主張し、さらには事実を歪曲したり脚色したりしながらどんどん藪を深めていくのが人間生来の性(さが)だからだ。そうしてみると相手の言い分を無視するか、徹底的に反駁(はんばく)するしかないわけで、その根本的な解決など夢のまた夢だと言うほかない。
今回、日本が最終的にとった「無視」の対応は、相手国より自国のほうの国力が遥かに大きいときなどは、昔からある「金持ち喧嘩せず」の諺通り、ある意味で次善の有効策ではあるのかもしれない。しかし、それならそれで、今回の火器レーダー照射問題に関しては当初から無視、あるいは両国関係当局間での内々の冷静な調整処理をするべきだったとも言える。韓国側への抗議は安倍首相の意向もあってのことだったとの報道もなされているようだが、裏を返せばそのこと自体が日本の近年の国力の低下を物語っていることになるのだろう。少なくとも安倍政権の劣化がその背景にあることは間違いない。

話は変わるが、このところ韓国は日本海という名称を「東海」に変更すべきだという主張を繰り返している。戦前・戦中まで、我が国においては「愛国行進曲」という一種の軍歌が広く称揚されており、幼い頃、私自身も折々祖父などがそれを口ずさむのを耳にしたものである。「見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば……」という歌詞で始まるその曲は文字通り旭日旗のイメージに直結するものなのだが、そのなかにある「東海」という二文字を、旭日旗に過剰なまでの拒絶反応を示す韓国が、「日本海」に代わる名称として用いようと言うのだからなんとも皮肉な話である。
日本人にとって「東海」とは太平洋のことにほかならない。ところが、愛国行進曲の歌詞の冒頭に「東海」という言葉があることを知ったある韓国の反日知識人などは、「日本人は太平洋のことは昔から太平洋と呼んでいる。歌詞のなかの『東海』という名称は、朝鮮半島が日本の植民地だった時代に、日本人などが現在の日本海のことを意味するために用いていたものでもある。だから、日本人が日本海を『東海』と呼ぶのに反対するのはおかしい」という趣旨の呆れ果てた主張まで展開しているのだという。さすがに韓国内でもその論理には無理があると顰蹙(ひんしゅく)を買ってはいるようだが……。
 どうせなら、かつての愛国行進曲の歌詞を、「見よ西海の空暮れて 落日低く傾けば……」と改めて「哀国後進曲」にしてしまったらどうだろう思ったりもする。要するに旭日旗を落日旗に変えてしまおうというわけである。しかし、そうなると、それはそれで、隋の煬帝に聖徳太子が送った書簡の冒頭の「日出(いづる)る処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す」の一文にも通じる侮蔑だという声が、また海の向こうからあがるかもしれない。いずれにしろ人間とは、そして国家とはなんとも厄介なものである。

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