(本郷寛東京藝大学大学院教授の退任記念展に臨んで)
久々に上野の東京藝大大学へと出向いた。本郷寛大学院美術教育研究科主任教授の退任記念パーティに出席するためである。縁あって私が同大学大学院と関わりを持つようになって以来、本郷教授とは長年にわたる親交を重ね今日に至っている。常々、「本郷さん」と呼ばせてもらっている本郷教授は彫刻を本来の専門としておられる。ただ、ずっと大学院美術教育研究科に所属していたこともあって、通常は美術教育関係の業務に専念しておられたから、学内においては、彫刻の世界におけるそのお仕事ぶりや、人物像主体の思想性豊かな諸々の作品群を拝見する機会はほとんど持てなかった。
だが、幸いなことに、この日は「黙示」と題される本郷教授の退任記念展が大学内の美術館で開催中だったので、まずはそのほうへと足を運んでみることにした。展示場いっぱいに立ち並ぶ彫像の数々は、一言で述べるなら、人間の心奥深くに潜み漂う命の表出そのものだった。様々な老若男女像のそれぞれは、無言のうちに、そのモデルとなった人物の人知れぬ心の底の呟きを見事なまでに代弁していたのである。まさにそれは「黙示」という言葉の真意に違(たが)うことのない作者渾身の作品群だったのだ。物は言わぬが心は語るそれらの彫像の佇まいに圧倒された私は、己の上辺だけの言葉の全てを逆に封じられてしまうような有り様だった。
本郷さんが、その鋭い観察眼を以て自らを取り巻く多くの人々の心中を深々と覗き量り続けてきただろうことだけは最早疑うべくもなかった。おそらくは、観察の対象となった人物自身がまだ自覚さえしていない愚かな本性をも、本郷さんによって凝視され尽くしていた可能性だってあるに違いない。いったいこの身などは本郷さんの目にはどんな風に映っていたんだろう――そんな小恥ずかしい思いが沸々と湧き上がってくるのを抑えることはできなかった。
もちろん、一群の作品中には、本郷さんが直接には会うことの叶わなかった人物らの彫像も数多く、作品としてはむしろそれらのほうが広く世に知られている。それらの人物に関する諸々の資料や伝記などを深く読み込み、その心奥を鋭く洞察したうえであらためて人物像を構成し、彫像作品として仕上げられたものであるのだが、その一連の仕事の中に本郷さんの全身全霊が込められていたことは言うまでもない。
黙然として立つマザー・テレサの像からは崇高な愛と祈りに満ち満ちた思念が声なき声となって静かに溢れ流れ出ていた。このブロンズ像の作品名は文字通り「黙示」となっており、実は今回の本郷教授退任記念展の全体テーマもこの題名に即したものだったのである。また、アンネ・フランクの像からは、自らの苛酷な運命の果てに待つものを直感しながらも、一刻一刻を真摯に生き抜き、短い生涯を閉じた少女のけなげな姿を窺い知ることができた。さらに、山高帽をかぶり、少しばかり全身を丸め、羽ばたく鳥の翼のように両腕を大きく広げマントの裾を揺らめかしながら片足で立つ宮沢賢治の像からは、その底知れぬ才気のゆえに世の常識を超越した観点に立って人間社会を見詰め直すことになり、その結果、そこに満ち溢れる矛盾や苦渋の数々を風刺的に描き語りかけざるを得なった彼の姿が偲ばれてならなかった。
本郷さんの作品には、渡良瀬川を汚染し周辺住民に被害をもたらした足尾銅山鉱毒事件ついて、時の明治天皇にその惨状を直訴したことで知られる田中正造翁の銅像などもある。本体は栃木県佐野市に設置されているのだが、会場にはその原型となった塑像が展示されていた。それは見るからに迫力のある老翁の像で、自然木の杖を両手のひらで突いて立つその袴姿の引き締まった口元からは、今にも義侠の怒りに満ち満ちた太く鋭い声が響き渡ってきそうであった。
なお、会場にはその写真が展示されているだけだったが、日本のロケット研究開発の父、故糸川英夫東京大学教授の銅像を制作したのもほからぬ本郷さんだったのだ。JAXAから依頼を受けた本郷さんは、シルクハットにネクタイ・シャツ姿で両腕を組み未来を見つめるようにして立つ糸川英夫像を完成させた。そのブロンズ像は現在、鹿児島県の大隅半島内之浦にあるJAXA宇宙空間観測所の構内に設置されている。
意外だったのは、かつて総理大臣の座にもあった島根出身の政治家竹下登氏のブロンズ立像が本郷さんの作品中に含まれていることだった。ただ、本郷さんの藝大退任に合わせて刊行された「こころをかたちに」という業績集には、簡単にではあるがその間の事情が記述されている。当時、東京藝術大学学長だった平山郁夫氏から竹下登氏の銅像制作の相談を持ちかけられたとき、本郷さんは、長年守り続けてきた自らの彫刻家としての理念や姿勢からしてその受諾は難しいと考えていたのだという。しかし、本郷さん自身が直参画した敦煌莫高窟の文化財保護活動や国内の各種文化財保護活動促進、さらにはそれらの保護活動に関わる人材育成などにおいて、藝大と竹下登氏との間には人知れぬ関係が存在していたことを知らされ、結局、その依頼を引き受ける決意を固めたのだとのことであった。本郷さん自身の言葉によれば、その理由は、「一人の人間の生涯の軌跡が、社会での職責を通してみる人間像をはるかに超えていることに気づかされた」からだったという。
(想定外の再会も)
なお、当日は同じ藝大美術館内の別会場において「美術教育の森展」が開催されもしていたので、そちらのほうにも足を運んでみることにした。かつて藝大大学院美術教育研究科の教員を務めた人々や、同研究科OB有志らの作品展だったが、そこでも思わぬ再会に恵まれることになった。
会場に入ってすぐのところに展示されていたのは、「神庫」という鉄を主要素材にした金銀象嵌入りの素晴らしい鍛金作品であった。それは、かつて私を認知科学系担当の客員講師として藝大大学院美術教育研究家に招聘してくださった、故伊藤廣利同研究科主任教授の名作のひとつであった。不思議な縁から伊藤教授と親しくなり、折あるごとに狭山にあるご自宅の工房にもお邪魔し、手取り足取りしてもらいながら大型銀杯の造り方までを教わったこの身としては、ただもう懐かしく、胸の詰まる思いがしてならなかった。伊藤教授は通勤電車の中での突然の腦膜下出血により急逝されたこともあって、胸中のそんな思いはひとしおだった。
その伊藤廣利作品のすぐ近くに、鋭く尖った顔面を突出し、両翼を羽ばたきながら眼光鋭く前方を睨む、どこか異様ではあるが存在感の漂う鍛金作品が展示されていた。「杜の神」と題されるその作品の前では、作者と思われる人物が二人の来客相手に当該作品の解説をしているところだった。そして自分でも意外だったが、「イルカしか作らないと思われていますが、昔はこんな作品も作っていたんですよ」というその作者の言葉を遠巻きに耳にした次の瞬間、思わず私はその人物に向かって声を掛けていた。「宮田さん、いや、宮田先生!」――その呼びかけに不意を突かれた相手は、一瞬驚いたようにこちらの顔に目を向けたあと、すぐさま自らその右手を差し出してきてくれた。私も反射的に右手を差し出し、再会を喜びながら固い握手を交わしたような次第だった。
その人物は、先に述べた伊藤廣利教授の後輩で、私が初めて出合った当時は藝大鍛金学科の教授をしていた宮田さんだったのだ。「大変なご活躍で何よりです!」と握手しながら昨今の宮田さんの姿を讃えると、「いえ、たいしたことなんかやってませんよ……」という謙虚な返事が戻ってきた。改めて述べるまでもないことだが、それは東京藝術大学長を経て現在は文化庁の首座に身を置く宮田亮平長官その人にほかならなかったのだ。本郷教授の退任記念パーティ参加のため、宮田さんもこの日は藝大に出向いてこられたようなわけだった。私がかつての教え子たちの作品なども展示されている会場をめぐる間も、宮田さんは一人で同じ会場内をゆっくりと歩き回っておられたが、ごく普通の人にしか見えないその自然な姿には、何の衒(てら)いも力みも感じられず、好感が持てたような次第だった。知らない人の目には、それが文化庁の長官の姿だなどとは到底映らなかったことであろう。
夕方5時半から大学内の音楽部側食堂において催された本郷寛教授退任記念パーティは文字通り盛況そのものだった。文科省の役人連中、先輩筋の元教授たち、同僚の教授・准教授・助教、美術教育研究科OBで他大の教授・准教授などを務める人物や独立した作家たち、さらには現役大学院生の面々などによって立錐の余地もないほどであった。もちろん、久しぶりに会う昔の教員連中や現在では国内各地の大学教員となっている教え子の姿なども見受けられた。第2回の執筆記事中に登場する教え子の黒川廣子藝大教授などとの再会も久々に実現したような次第だった。先刻美術館で再会したばかりの宮田亮平文化庁長官などは、パーティの締めの挨拶に立ち、現在のその役職からはおよそ想像もつかないような自由奔放な言葉と振舞いで本郷さんの長年の苦労をねぎらい、間近に迫った退任の時を温かく見守りたい旨の思いを語りもしたのだった。ちなみに、本郷さんは、今後は専ら彫刻作品の制作のみに勤しむ決意であるとのこともであった。