(昨今の英語教育熱に思うこと)
世の片隅でひっそり生きるこの身にとっては今更どうでもよい話なのかもしれないが、この国の文化を支えてきた日本語は五十年、百年後にはどうなってしまうのだろうかと思うことがある。言語というものが時流とともに刻々と変化していくのは避けようがないし、社会の変遷に伴い新たな言葉が生まれたり古い言葉が死語となって姿を消したりすることはやむを得ない。だが、その時々の母国語による本質的な表現力や諸々の重要文献に対する理解力が著しく劣化するとなると話は別である。まともな表現力も理解力も持ち合わせないこの身が偉そうなことなど言える筋合いはないのだが、それでも昨今の初等中等教育現場の状況を見聞きすると何かと気掛かりに思われることが少なくない。
将来の国際的な人材育成の重要さを謳って、昨今の小中学校などでは英語教育熱がこれまでになく盛んである。もちろん、それは近年の国の教育政策にのっとった風潮でもあるわけなので、一概にそれが悪いことだとは言い難い。近い将来、バイリンガルな若者たちが続々と誕生し世界を股にかけて活躍することになるならば、それは大いに歓迎すべきだろう。ただ、その一方で、昨今に見るような時流にひたすら翻弄され、日本語も英語も日常会話的な水準か、それに毛の生えたような状態で終わってしまうようであるとすれば、それは大きな問題であるに違いない。それにまた、昨今大流行のAIによる翻訳機器などが一段と進化を遂げたら、日常会話程度のことなら難なく処理されるようになるだろう。
少し話は込み入ってくるが、たとえバイリンガルやトリリンガルの人物であったとしても、深い思考をするときには、母語、すなわちその人の言語の根底基盤を形成する第一言語に頼ることが知られている。ひと昔前の一時期、客員講師を務めていた東京藝術大学大学院での教え子で、現在は藝大美術館所属の教授を務める黒川廣子さんという女性がいるが、ある時、たまたま彼女が何気なく述べた言葉を今も時々思い出す。父親の仕事の関係で幼い頃からアメリカで育った彼女は、高校時代の終わりに単身帰国し、藝大美術学部、さらにはその大学院へと進んだ。その日本語の知識も会話力もしっかりしており、日本語で学術論文も執筆すれば、日本の伝統芸術の専門研究における高度な文献をも読みこなす能力をそなえていた。彼女の恩師で鍛金の大家だった故伊藤廣利藝大大学院教授も、美術教育研究分野でのその学識の高さを認めていたものだ。そんな彼女が、「先生、私は深い思索をするときは、自然に英語で考えます。その点、成り行き上、日本語と英語どっちつかずになってしまった姉などは今も親を恨んでいますよ」と話してくれたものだった。もちろん、彼女の母語(母国語ではない)は英語だったわけであるが、彼女のお姉さんの場合には。十分には母語が形成されていなかったことになる。
この事例からもわかるように、幼少期や初等中等教育期に母語(第一言語)をしっかり習得することは思考力の形成にとって必要不可欠なことであり、母語あってこそのバイリンガル、トリリンガルなのである。英語教育ブームに煽られるあまり、母語である肝心の日本語の習得がおろそかになってしまったら、先々それによる負の影響をこうむるのは成長期の子どもたちなのである。そうしてみると、日本語を優先してしっかりと身に付け、そのうえで英語その他の外国語を学んでいくべきであろう。もちろん、国際性を最重要視しなんとしても英語の習得を優先させたいというのなら、たとえ日本で暮らしていようとも、インターナショナルスクールのようなところでまずは母語として英語を徹底習得し、そのうえで日本語を身に付けていくべきだということになる。通常の日本の幼稚園や小中学校に子どもたちを通わせながら、英語優先の教育に過度の期待を抱いたり、またその結果として日本語の学習が不十分なものになったりしたら、将来そのツケを被るのが誰であるかは言うまでもないことだろう。
中学を卒業するまで鹿児島県の甑島という離島で育った私は、鹿児島市内の高校に進学した当初、英語の劣等生だった。昭和30年代初頭の離島の中学校での英語教育環境は惨憺たるものだったからである。時代柄のことゆえ、今更そのことを責めるつもりはさらさらないが、英語の先生からして代用教員だったり他教科が専門の先生が掛け持ちしたりし、今思うと、指導力不足だったうえに、当時の離島ならではの事情もあって、中学3年生時に中学2年生の英語教科内容を教わるという有り様であった。もちろん、貧しい離島村落のこととあって、学習塾などは言うに及ばず、参考書を売っているような本屋など皆無であった。当然、本土のそれに較べ他教科を含む全体的な教育レベルも高くはなかったが、とくに英語に関しては何とも酷く絶望的な状況だった。
もっとも、そんな離島の中学校のなかでのことなら英語の成績は優秀だったが、進学先となった鹿児島市内の高校での英語の成績ときたら、もう目も当てられない有様だった。だが、そんな私が、散々紆余曲折を経たうえで、曲がりなりにも外国人と英会話を介して親しく交流を結んだり、英語で論文を執筆したり、英文書籍の翻訳書を何冊も出版したりすることができるようになったのは、母語である日本語の基礎を幼少期や初等中等教育期にしっかりと身につけていたからなのである。幼い頃から新聞、雑誌、小説などを読むのは大好きで、田舎の学校の小さな図書室にある本をあれこれ借りては読み耽ったものだった。今ではごく日常的な英文などならそのまま直接理解できるが、高度な外国語の専門文献や奥深い内容の伴う評論・随筆・小説・哲学論文などを原書で読み込むとなると、やはり母語である日本語の概念にいったん置き換えたうえで理解し吸収せざるをえない。だが、もちろん、私はそれで十分だとも思っている。
先日のことだが、英国BBC放送WORLDWIDE部門の現役局員である清水健さんと話す機会があった。ロンドン日本人会々長などをも務め英国生活の長い清水さんは、日本に一時帰国した際などには東大、名大、早稲田、慶応などで国際関係学科の講義を行うとともに、様々なかたちで日英間の文化交流に貢献もしている人物だ。もう随分以前のことだが、私が朝日新聞のWEB上のAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)欄で「ある奇人の生涯」という伝記小説を連載していた際、ロンドン在住の清水さんはその記事を毎回愛読してくださっていた。その作品の主人公・石田達夫は終戦直後の1949年から1954年までロンドンのBBC日本語部局に勤務していたことがあり、その際の想像を絶するドラマティックな出来事などをもその連載記事の中で紹介していたため、たまたま清水さんの目にとまったというわけである。そして、それが縁となって清水さんとは長年にわたる親交を結ぶようになった。
その清水さんが英語に関して近頃よく口にしていることがある。「英国を訪れる日本人のなかで真に英国人に歓迎されたり高く評価されたりするのは、日常的な英会話が巧い人物などでは決してありません。たとえたどたどしい英語しか話せなくても、あるいは英語など全く話せなくても、日本の諸々の文化や芸術、民俗、思想などに深く通じる人物のほうがずっと好感をもって迎えられますし、日英間の真の意味での交流の懸橋になれもするのです」というわけである。
そして先日会った際にも、「最近も英国で日本文化を紹介しようと考え、日本からいったん英文記述の資料文献を送ってもらったのですが、肝心のその英語の文章が何を言わんとしているのかよくわからなかったんです。手入れをしてみようにもそれ以前の問題でどうしようもありませんでした。そこで、翻訳はこちらで責任をもって進めるから日本語の文章で送ってほしいと依頼しました。ところが、届いた日本語の文章そのものがまた、奇妙なカタカナ語などが入り混じったりしているうえに文意がなんとも不明瞭で、その趣旨内容が的確には理解できなかったのです。長年日本を離れている身ゆえに余計それを痛感させられるのかもしれませんが、日本語の将来は大丈夫なのだろうかと心配にもなってきました」と語っていた。
英語の習得が必要ではあるのは言うまでもないが、その習得を急ぐあまり、肝心の母語の日本語の機能が衰退し、それに伴って大切な日本の文化の真髄が失われていくことだけは何としても避けなければならないと思ったりもするのだが……。杞憂かもしれないが、小中高なでの英語教育カリキュラムの改更や大学入試における民間試験の導入が英語教育の充実を隠れ蓑にした官民一体のビジネス戦略の一環ではないかという危惧さえも覚えたりする。万一そんなことがあったりしたら、それこそ亡国の策と考えざるをえない。