幻夢庵随想録

《幻夢庵随想録》(第1回)(2018,12,01)

(月夜の多摩川原にて) 
 今宵は月が静かに微笑んでいる。我が家のすぐ近くを流れる多摩川の土手上から眺める月の光は、その時々の風情を湛えながら見る者の心深くに優しく射し込んでくる。もちろん月の名所は国内各地に数知れぬほど存在するし、放浪癖のあるこの身のことだから、たまたま訪れた旅先の浜辺や湖畔さらには山中などで、心に沁みる幻想的な月光の輝きを幾度となくまのあたりにしてきてはいる。ただ、都会での日常生活の場にあって、夜の川原や川面の景色とごく自然に一体化しながら、何処か謎めいた光の言葉で折々の秘め事を囁き語りかけてきてくれる月影の存在は、日々ささやかに余生を送るこの身にとってはなんとも感慨深い。 
 そんな月光の中に咲き浮かぶ名もない一輪の野の花を目にすると、この世における一個の命というものの存在の重さをあらためて考えさせられる。広い川原や野原の一隅にあってひっそりと息づき開く野の花というものは、ひたすら自然の摂理に促され、自らが受け継いだ命を後世へと伝え遺すためのみに咲くのであって、人の世に見るような、必要以上に自己の存在意義を顕示しようとする意図などはさらさらない。生来愚かなこの身のことゆえ、たとえ余生といえども、野に咲く花の姿そのままに清廉潔白に生きることなどできそうにもないが、せめてそんな花の心になるべく寄り添ってみることくらいはしてみたい。
 文字通り世の片隅にあって、立ち枯れ寸前の状態で辛うじて生きるこの身に出来る振舞といえば、折々浮かぶ気紛れな思いを駄文にして綴り残するくらいのことだろう。むろん、自らの支離滅裂で他愛もない戯言を気ままに吐き出すことにより、精神の均衡を保持しようというだけの話なのだが……。それでも、そうやって駄文が積もり積もれば人知れず咲く小さな一輪の花のようなものくらいにはなってくれるだろうし、もしかしたら今しばし生きながらえることの意義くらいは見出せるかもしれない。人様の目に触れることがあろうがなかろうが、ここは野の花の心に倣いつつ、自らの心のままに拙い言葉を連ね続けるほかはないようだ。

それにしても。この月が地球の周りを廻り始めてから、いったい何十億年の時間が流れ去ったことだろう。万有引力などという目には見えない奇妙な力に導かれるままに、付かず離れず黙々として地球を周回し続けてきたわけである。そんな月の姿を眺めていると、たまには一ヶ月ほどくらいでいいから同じ位置に留まって疲れを癒すなり、ある日からいきなり逆回りしてみるなり、なんなら赤道面とは垂直になるような縦回りの軌道を描いてみるなりして、自然の摂理に反逆したらどうかと唆(そそのか)してみたくもなる。当然、そうなれば、地球に及ぼす潮汐力なども大きく変動し、海洋生物の生態系にとってはむろん、人類の生活様態にとっても想像を絶す一大変化が生じることだろう。無責任なこの身はそんな世界をたまには目にしてみたいと思いもするが、さすがに自然の摂理を一途に守るお月様のほうはそれほどまでには気紛れでないようだ。

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