斜里町を経て弟子屈(てしかが)町川湯近くに到着したのは午後十時頃だった。弟子屈町周辺の地理には明るかったので、暗いなか脇道や枝道に入っても迷うようなことはなかった。この一帯の地理に詳しいのは、摩周湖や屈斜路湖、釧路湿原などの大自然に魅せられ、若い頃から幾度となく足を運んできたことにもよるが、いまひとつには、公務員を退官した義父が一時期この地に居を構えていたからでもあった。その義父も既に他界し、義母や家内の弟妹たちも皆東京近辺に移り住んでしまったので、いまではこれといって知人がいるわけでもないのだが、私にとって何かと想い出深い土地であることには変わりなかった。
硫黄山のすぐ近くを通り過ぎ、川湯の温泉街を抜けて屈斜路湖畔の砂湯に出ると、いったん車を降りて湖岸へと向かった。そして温泉の湧き出す水辺に立って湖面に漂う夜の大気を深々と吸い込んだ。昼間は観光客で賑わう湖畔も、夜遅くとあってはさすがに人影は見当たらなかった。暗い湖面をじっと眺めているうちに、言葉にならない様々な想いが胸中で交錯し、瞬時に消え去る幻のキャンバスの上に脈絡のない心象風景を次々と描き出した。
旭川出身で北海道の自然を深く愛した義父は、旧大蔵省財務官としての仕事を退くと、自ら望んで自然に恵まれたこの地に移り住み、十年近く国家公務員共済会保養所「大鵬荘」の支配人を務めていた。かつては旧陸軍士官学校出身の軍人でもあった義父だったが、権威主義的なところはまったくみられなかったばかりでなく、他人に対する思い遣りも深く、思想的にもきわめてリベラルな人物であった。権威ある者の横暴さや理不尽な振舞いには敢然と立ち向かい、弱者のためには己の不利益や不都合を顧みず真心のかぎりを尽くし、しかもそれについて他言するようなことはほとんどなかった。
弟子屈町出身の名横綱大鵬にちなんでその名前がつけられたという大鵬荘の宿泊客のなかには、国家公務員上級職や国会議員としての地位や権力を鼻にかけ、従業員や他の一般宿泊客に対して横柄極まりない態度をとる者なども少なくなかった。そんな時、義父は毅然として振舞い、けっして特別扱いしたりするようなことはなかった。義父に言動の非をたしなめられ、お前の首などすぐにも飛ばしてやるといきり立つ客を容赦なく叩き出してしまったようなこともあった。
もっとも、そんな義父の気質が義母や家内、さらにはその弟妹らにとって幸いしたかというと、必ずしもそうとばかりとは言えなかったに違いない。たぶん、義母や家内ら子供たちは、見えないところで大きな皺寄せをうけ、それがもとで様々な苦労もしたことだろう。善しにつけ悪しきにつけ、ある人間がなにかしらの信念や理念を通して生きようとすれば、必ずどこかにその皺寄せが生じるものだからだ。むろん、それは、とるに足らないものながら、信念のかけららしいものだけは心に抱いて生きている我が身にも当てはまることだった。
夜の湖岸に寄せるさざなみの音に記憶の深層を揺すぶられてか、突然、私は、仕事で上京中だった義父との初対面の日のことを想い出した。ごくありふれたお店の一隅で、義父はビール瓶と空のグラスを前に置き、飲めない私はジュースのグラスを前にして無言のままじっと向かい合っていた。静かだが心の奥を射抜くような鋭い視線で私の目を見つめていた義父は、やがて自分でグラスにビールを注ぐと、それを口にしながら、「本田君、いちど北海道に来たまえ、家内も待っているようだから」と一言だけ短く口を開いたのだった。近親者などまったくいないその日暮らしの身で、将来の展望もまるでたたない有様ではあったのだが、義父はそれ以上こちらの身上その他について詰問したり詮索したりするようなことはしなかった。
弟子屈を訪ねるごとに、義父は自ら車のハンドルを手にしていろいろなところへと私を案内してくれた。地元の人だけが知る屈斜路湖や摩周湖の散策スポットは言うまでもなく、知床半島や根釧原野、釧路湿原、さらには阿寒、美幌、北見一帯にまでその範囲は及んだ。山菜や茸採りに連れて行ってくれることもしばしばだった。そして、そんなふうに私を案内するかたわらで、義父は、大陸で自ら体験した戦時中の凄惨な出来事などについて、どこか重たい口調ながらも、包み隠すことなく話してくれたものだった。職業軍人という立場のゆえだったとはいえ、義父もまた、消し去ることのできない戦争の傷を心中深くに秘め隠して生きる人間の一人であることを、その時私は初めて知ったようなわけだった。
あるとき義父は、何を思ったのか、自分が悪性の癌などのような死につながる病にかかった時には必ずそのことを告知してくれるようにと言った。それからずっとのちのことになるが、静岡県伊東市に移って余生を送っていた義父は、耳下腺に異常をきたし、東京の駒込病院に入院した。専門医による詳細な検査の結果、異常の原因は悪性の耳下腺癌と判明、転移の疑いもあることが明らかになった。それとなく状況を察した義父は医者や義母や家内らに病状について本当のところを告げてくれるようにと執拗に迫ったが、誰もが、たいしたことはありませんよと笑ってはその場凌ぎの対応に終始していた。
何度かの見舞いの際に、たまたま義父と私とが二人だけになることがあった。義父はまるでその機会を待ち構えていたかのように私の顔を見つめ、単刀直入に病名と客観的な病状とを訊ねてきた。「悪性の癌などにかかった時には必ずそのことを告知してくれるように」という義父の言葉を想い出だした私は、もうこれ以上嘘はつけないと観念した。鋭い義父の視線も、それ以外の選択をすることを許してはくれそうになかった。私は率直に「かなり悪性の癌です」と伝えたのだった。あえて「かなり」という一語を冠したのは戸惑い揺らぐ己の心の証そのものにほかならなかった。
義父は私の言葉に黙って頷いた。あきらかにすべてを悟った表情であった。それからほどなく、義父に病名を告知したことを義母や家内らに正直に伝えたが、幸い誰からもその行為を責められるようなことはなかった。それから一ヶ月ほどして、義父は、心身すべての痛みから解放されるように静かに他界した。
暗い湖面を見つめながら義父にまつわるそんな出来事を回想しているうちに、せっかくだから大鵬荘の跡を訪ねてみようかという思いが湧いてきた。風の噂で、大鵬荘は閉鎖され敷地と建物は売りに出されているという話を耳にしていたので、いまはどうなっているのだろうかという思いもあってのことだった。
釧路川の支流のひとつは屈斜路湖から流れ出している。その支流を渡り、釧路と美幌をつなぐ国道を左折して二十分ほど走ると弟子屈市街に出た。かつてのJRの駅は町名とおなじ「弟子屈」であったが、いまでは「摩周」という駅名に変わっている。この町は摩周湖観光の玄関口だから、より一般に親しみのある駅名にということで、そのような名に変更されたのだろう。駅名も変わっていたが、それ以上に変貌をとげていたのは弟子屈の街並みそのものだった。すっかり近代化し、夜間でも都会並みに明るくなった街並みには、かつてのような旅愁を誘う北国の町特有の風情などまったく感じられなかった。
建物や道路をはじめ、町全体の景観や雰囲気がすっかり変容していたため、大鵬荘のあった場所を探し出すのに少しばかり手間取った。だが、大鵬荘そのものは、無人となり荒れ果ててはいたものの昔のままで存在していた。懐中電灯を手にして敷地内に入り、かつては宿泊客で賑わっていた白い木造二階建ての建物の玄関先に立つと、封鎖されたドアの前に何事かを掲示した板が一枚掛かっていた。そして、そこには、この物件が売出し中であり、問い合わせ先は弟子屈町川湯の国家公務員共済会保養所である旨の表示がしてあった。
樹木と雑草がのびほうだいにのびた庭を奥へと進むと、見覚えのある楡の巨木が現れた。大鵬荘の主ともいうべき楡である。中学を卒業したてのある従業員の女の子が、この樹上高くにのぼり、親元の家のある方を遠く見つめながら泣いていたという伝説の楡の木だった。
いまでこそ緑豊かな酪農地帯になっているが、パイロット・ファームと呼ばれていた草創期の開拓牧場で働く者の生活は困窮を極め、あちこちで夜逃げが起こったりするほどに悲惨なものだった。義父はそんな家庭の女の子たちを雇い、親身になって我が子同様に育て上げ、夜学や通信教育を通してそれなりのことを学ばせ、結婚したり転職したりする場合もあれこれと世話をやいていた。そして、彼女たちが巣立っていったあとも、ことあるごとに相談にのったり面倒をみたりもしていたようである。それでもなお、中学卒業後すぐに親元を離れ慣れない職場で働くことは、彼女たちにとって大変なことだったのだろう。
義父はよく従業員の女の子たちの実家に近況報告をかねて挨拶に出向いたが、そんな時などに同行してみると、牛熊原野(実際そんな地名があった)何番地などといったような、人里を遠く離れたなんとも辺鄙な場所だったりもした。一帯がタンポポの黄一色に覆われる初夏などの景観は、旅人の目には素晴らしいものに映りもしたが、飼われている牛の数が少ないことや、厳冬期の自然の猛威などを考えると、その生活の過酷さは容易に想像がつきもした。
裏庭にまわり、掃除などを手伝った記憶を頼りに温泉の源泉のあったところを覗いてみたが、すっかり深い草むらに覆われ、はっきりと確認することはできなかった。当時は絶え間なく熱湯が湧き出ていたものだが、もしかしたらなんらかの理由で温泉が枯れてしまたのかもしれない。義父が可愛がっていたコロという名の利口な雑種犬や、名前は忘れたが黒毛の大きなアイヌ犬などを引き連れて敷地の裏手に続く山に分け入り、山菜採りや茸採りをしたことなども懐かしく想い起こされた。
懐中電灯を片手にあちこちとうろつく姿をどこかで義父が見ているかのような気がした私は、ポケットから携帯電話を取り出し、自宅の家内を呼び出した。そして、いま大鵬荘にいる旨を告げ、驚く声を耳にしながら、建物や敷地周辺の変容ぶりを実況放送よろしくつぶさに伝えたりもした。私以上にこの地に深い想い出のある家内などは、感慨もひとしおだったに違いない。
大鵬荘をあとにすると、私はもう一度屈斜路湖へと引き返した。ただし、こんどは砂湯ではなく、屈斜路湖の南岸から湖中にのびだす和琴半島に向かうためだった。全体が和琴の形に似ているためにその名があるこの小さな半島のなかほどには、いつでも自由に入浴可能な露天風呂がある。湖畔に面したかなり大きな天然の温泉で、熱いくらいのお湯がこんこんと湧き出ており、しかも入浴料は無料ときている。星空でも眺めながらこの露天風呂に入って、ゆっくりと一日の汗を流そうという魂胆だった。
和琴半島に着いたのは午前零時頃だった。オートキャンプをやっている車の影が何台か見られたが、露天風呂には地元の人らしい先客が一人はいっているだけだった。手早く服を脱ぎ、自然の岩を組んでできた湯船の中に飛び込むと、心地よい底の砂地にどっかりと尻をすえ、四股をいっぱいにのばして目をつむった。すぐそばの渚から時折かすかな水音が響いてくるくらいで、あたりは静寂そのものだった。
しばらくして先客が立ち去ると、広い露天風呂は文字通り私の占有物と化した。湯船の中から遥かに見上げる夜空では、白鳥が悠然と銀河の流れの中を羽ばたき、その銀河をはさんで佇む織姫と牽牛は、永遠に叶わぬ恋と知ってか知らずか、互いに青い光を放ちながらいつまでも瞬き呼び交わし合っていた。
そんな静寂のなかにあって想うべきことは、本来なら他にあってしかるべきはずだった。だが、こともあろうに、その時私が想い浮かべたのは、死ぬまで義父が心の奥底に負い続けた深い深い傷のことだった。義父が生前私にその話をしてくれた真意がどこにあったのかは今更知るすべもなかったが、自らが大陸の戦場で体験した凄惨かつ愚かな行為を後世に語り伝えておく必要があると考えていたことだけは確かだろう。かつて私が聞いた話の一端はたとえば次ぎのようなものであった。
義父の話によると、中国を侵略した日本陸軍は、地理不案内な地域へ作戦部隊を進めるとき必ず現地の民間人を呼んで道案内をさせていた。そして、案内させている最中はもっぱら彼らとにこやかに談笑し、食糧を分け与えたり煙草をすすめたりしていたが、いったん用済みとなると直ちにその場で射殺した。むろん、それは軍上層部からの至上命令で、その処理が終わると、当然のようにまた別の案内人を呼び、事が済み次第また同様に射殺するという行為を繰り返しながら進軍を重ねていったのだという。
中国人捕虜の扱いも正気の沙汰は思えないものであったようだ。兵站が不十分であった日本軍には人的にも物的にも中国人捕虜を養うだけの余裕はなかった。そのため、陸軍司令部は国際法違反を承知で各部隊に捕虜を割り当て、処刑させるという手段をとった。各部隊は割り当てられた捕虜たちを軍用犬の訓練や初年兵の教練のために用いたという。
後ろ手に縛って自由を奪い、獰猛な軍用犬に襲いかからせようとすると、死を覚悟した無抵抗の中国人捕虜たちは恐ろしい眼で犬どもを睨みすえた。そのあまりに凄まじい形相に怯えをなして、さしもの軍用犬もすぐには近づこうとはしなかったらしい。そんな時、現場を指揮する将校たちは軍刀で捕虜の耳や鼻をそぎ、それを犬に食わせて血の味を覚えさせてから襲いかからせたのだという。その様子を見ていた義父は、犬にそうやって襲わせ殺すよりはひとおもいに殺してしまったほうが彼らのためだと考え、自分の部隊に割り当てられた捕虜を軍刀で切ったと辛そうに話してくれた。義父の場合は、極力部下にそんな蛮行をさせないようにするため、なるべく自分で責任をとるようにしていたらしい。
処刑されようとする時、中国人捕虜たちは首を切り落とさずに刺殺してくれるように哀願したという。首を身体から切り離されると人間に生まれ変わることができないという信仰が当時の中国人にはあったからであるらしい。そのいっぽう、中国人大衆は、そんな時、大勢集まってその凄惨な光景を外から眺めているのが常だったようである。
陸軍士官学校などを終え、新人士官として戦線に送られた者などは、上官によってまず数人の中国人捕虜の首を切り落とすよう命じられたものだという。古参兵などの部下を指揮して戦闘を展開するには、その程度のことはごく普通にできなければならないと考えられていたからだった。はじめて五人の捕虜の首を切り落としたとき、義父は吐き気をもよおし一週間以上も食事をとれない状態だったらしい。しかし、やがてそういう行為に対する嫌悪感も麻痺していったと義父は正直に告白している。
もっとも残虐だったのは医療担当の衛生兵で、なにかにつけ捕虜を殺害したという。天井から逆さ吊りにして拷問にかけ、そのまま捨て置いて街へ飲みにでかけたりすることなど日常茶飯事であった。むろん、その間に捕虜たちは皆死んでしまっていた。
中国人捕虜や強制的に狩り立てた現地労働者たちを遠くまで連行して使役し、労役が終わると次々に殺して死体を遺棄したり埋めたりするのは、日本の部隊が当時よくやっていたことであった。ところが、そんな時、どこで誰がどう手筈を整えるのかは判らなかったが、必ずと言ってよいほど、翌日になると遺体は跡形もなく消え、何処へともなく運び去られていたという。
もちろん、時には日本兵の捕虜が無残な姿で発見されることもあったようだ。口から尻まで太い針金を通して裸のまま宙に吊るされ、中華料理の豚の丸焼きを作るのとおなじ要領で焼き上げられた戦友を目にし、愕然としたこともあったそうだ。戦場の人間心理とは異常かつ勝手なもので、そんなときには自軍の残虐行為など棚に上げ、悲憤と激しい敵愾心に駆られたものだという。
戦争とは狂気そのもの――狂気にならねば戦争には耐えていけない、正常な判断力を意識的に擦り減らさないかぎり戦争のさなかを生き抜いていくことはできない、それは異常が正常で正常が異常となる世界なのだと、義父は言葉を噛み締めるように語っていた。家内の話によると、義父は寝ている時などにひどくうなされることがあったそうだから、たぶん、そんな時など遠い日の深い心の傷が悪夢となって甦ってきていたのであろう。東アジアや東南アジア一帯で日本軍を率いた多数の将校や下士官たちは、その意味では皆同罪者であり、また同じ心の負傷者でもあったのだろう。
「平時には人一倍冷静沈着でしかも穏やかな人が……そう、虫一匹殺さないほど生命に深い畏敬の念を抱いている人間が、死に直面した極限状態の戦場では驚くほどに変わってしまうものなんだよ。むしろそんな人間のほうがびっくりするほど勇敢に戦い、しかも敵に対して冷徹に、そして時には残忍このうえなく振舞ったりするものなんだ。どんな人間の心にも鬼や悪魔が棲んでいる。本田君、君なんかも戦場だとどう変わるかわらないぞ……」
あれこれと二人の間での会話を回想するうちに、いつしか私は、あるとき義父が何気なく吐いたそんな言葉を想い出していた。確かに自分の心にも冷酷無比な鬼が棲んでいるに違いない。その鬼を生涯眠らせたままにしておくことができれば幸いではあるし、また極力そうしたいものだとも思ったが、絶対に目覚めることがないと言い切れるだけの自信はなかった。義父の言わんとしたところは、一時代前の名画「人間の条件」のいくつかのシーンにそのまま重なる感じさえあった。
複雑な想いに駆られながら露天風呂を出た私は、車に戻るともうひと走りして摩周湖の第三展望台駐車場に向かうことにした。もちろん、気分を入れ替えながら夜道を駆け抜け、見晴らしのきくその場所で一夜を明かそうと考えたからだった。だが、いったん脳裏に浮かび上がった亡き義父の重い言葉は、展望台駐車場に着いてもなお、容易には意識の舞台裏へと消え去ってはくれなかった。
2001年10月3日