「奥の細道」にもフィクションが?(1998年12月2日)
一般には、「奥の細道」という作品は、芭蕉がその旅の実体験をほぼそのまま述べ記した紀行であると信じられている。だが、芭蕉の随行者だった曽良の随行記、いわゆる「曽良日記」の発見や、最近話題になった芭蕉真筆本の出現、さらにはそれらの資料をもとにした専門家たちの厳密な研究と考証によって、近年、意外な新事実が次々に明らかになってきているという。
さきに草加市で行われた講演で、ドナルド・キーン先生は、そのあたりのことについて興味深い話をしてくださった。学識豊かな先生のことゆえ、当然講演の内容は多岐にわたったが、「奥の細道にも実はフィクションの部分があった」というお話などは、私のような素人にとっては大変興味深いものだった。
「フィクション部分があるからといって奥の細道の文学的価値が落ちるわけではない。むしろそれによってその芸術性は一段と高められている」とあらかじめお断わりになったうえで、先生は具体的にいくつかのフィクション部分を指摘された。
自らの作品を納得ゆくまで推考し、何度も手直しするというのは、芭蕉の常であったらしい。したがって、数々の有名な芭蕉の句のなかには即興句はほとんど存在していないという。芭蕉は自然体のままでさらさらとあのような秀句を詠んだ、とばかり信じていた私などは、その話を聞いたあと、自分の無能さを棚にあげ、いささかほっとした気分になりもした。
山形県の山寺にある立石寺で詠んだとされる有名な一句、
閑さや岩にしみ入る蝉の声
は、完成に至るまでに少なくとも三回は手直しされ、最終的には当初の句とはかなり違ったものになったのだという。また、旅立ちに際し、見送りの人々との別れを惜しみながら千住あたりで詠んだとされる句、
行く春や鳥啼き魚の目は泪
にいたっては、奥の細道の旅を終えたのちに作り加えられたものであるというから驚きだ。
明らかにフィクションとわかるのは、日光で詠まれた、
あらたふと青葉若葉の日の光
という句だそうで、曽良日記その他の資料などをもとに詳しく考証してみると、芭蕉一行の日光来訪時は雨続きで、青葉若葉が日の光を浴びて輝いてなどはいなかったらしい。
また、「石の巻」の段には、
山深い猟師道を迷い抜けてようやく繁栄をきわめる石の巻の町についたが、なかなか泊めてもらえるところが見つからない。やっと見つけた貧しい小家に泊めてもらい、夜が明けてから、また知らない道を迷いながら歩いていった。
という主旨の記述がある。ところが、実際には、当時の要港、石の巻周辺の道路はそれなりに整備が行き届いていて迷うようなことはなかったはずだというし、泊まった家もほんとうは地元商家の立派な邸宅だったのだそうだ。芭蕉があえて事実と異なる記述をしたのは、やむをえなかったこととはいえ、彼自身は資産家と縁を結ぶことを誇りとは思わなかったうえに、石の巻周辺の栄華ぶりが自ら理想として想い描く陸奥の情景とは違ったものであったからではないかと考えられるという。
荘厳に輝く中尊寺光堂に感動して詠んだといわれる、
五月雨の降りのこしてや光堂
の句だが、曽良日記によると、光堂を包み守る覆い堂には錠がおろされていて、実際には芭蕉たちは何もみることができなかったようである。だから、奥の細道のクライマックスの一つとして欠かせない光堂を、芭蕉は想像力を駆使し、心の眼で透視し、その心象風景を歴史的な名句として詠みあげたことになる。ただもう見事というほかはない。
芭蕉は現在の四百字詰め原稿用紙で三十五枚ほどの奥の細道を完成するのに五年もの歳月をかけたという。その理由は、句の部分ばかりでなく、散文部を含めたその作品全体を、きわめて完成度の高い詩篇ないしは詩物語として仕上げようという意図があったからだろうと、キーン先生は語っておられる。壮大な旅路での数々の実体験が芭蕉という稀代の天才の心のなかで一度濾し分けられ、それが深い感動を伴う究極の心象風景となって、「奥の細道」という普遍性の高い作品へと結実したのだと、先生はおっしゃりたかったに違いない。実際、そうだからこそ、奥の細道は外国の人々にも愛読されるのであろう。
市民参加型の文化行政を進めている草加市の「奥の細道・芭蕉講演会」は先日のキーン先生の講演で第十一回目を数えるにいたった。草加市奥の細道まちづくり市民推進委員会によって「百代の夢(はくたいのゆめ)」という講演録も刊行されており、そのなかには、尾形仂、大岡信、有馬朗人、佐藤和夫などの諸先生をはじめとする十名ほどの方々の講演のほか、以前のドナルド・キーン先生の講演なども収録されている。装丁も芭蕉の精神をほうふつとさせるような、華美を排したシンプルなデザインになっており、約三百ページの書籍にしてはきわめて格安で好感がもてる。
なお、この本の末席に他に比べて格段に見劣りする場違いの講演が一つだけ含まれているので、その部分だけは迷わず無視なさったほうがよいだろう。その理由はご想像にお任せする。
余談になるが、なるべく労なくして奥の細道の追体験をしたいという、無精で欲張りな方々のために、とっておきの情報を提供しておこう。国道四七号線を鳴子から新庄方面に向かって走ると「尿前の関」跡に出る。芭蕉一行が役人にその身分を厳しく問われ、足止めを食らったところでる。関跡を右手に見ながら通過し、しばらくのぼると谷を横切る大きな橋にさしかかる。車を降りてその橋のたもとから谷筋沿いに細道を辿ると、ほどなく清流のほとばしる深い沢にいる。頭上はうっそうとした樹木に覆われ、初夏の頃だと、どこからともなく澄んだ小鳥の声が聞こえてくる。
よほどの物好きしか通ることのない隘路だが、この道こそは芭蕉一行が折からの悪天候と戦いながら越えていった小深沢の六曲がりの古道にほかならない。当時のままの様相を留めているのは旧道のごくわずかな部分にすぎないが、行く手をさえぎる木立の枝々の下を左右にくねり縫う急傾斜の細道は、元禄時代の中山越え(奥羽山脈越え)の苦労と、当時の旅の雰囲気のほどを十分に偲ばせてくれる。二・三年ほど前、私も実際に歩いてみたが、芭蕉や曽良の話し声や足音がいまにも聞こえてきそうで、なんとも感慨深かった。往復で三・四十分程度しかかからないから、芭蕉通を自称する方々は一度訪ねてみるとよいだろう。
芭蕉一行はこの山道をのぼりつめたあたりで激しい風雨に見舞われ、やむなく出羽国境の役人の家に三日ほど逗留することになった。そのときに詠まれのが、
蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと
という有名な一句である。キーン先生は、先の講演のなかで、この句は芭蕉の旅の精神の真髄を象徴するものだと賞賛しておられた。
天候の回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で、芭蕉たちは道なき道を分け進みながら山刀伐峠を越え、尾花沢の集落へと抜けていったのである。ただ、のちにキーン先生のご研究に触発された私は、奥の細道の中で「封人の家」と記され、現在もその姿を留めている屋敷を実際に訪ね、さらには山刀伐峠へも足を運ぶことになった。そしてそこでも、自ら奥の細道の良い意味でのフィクション性――すなわち先生の鋭いご指摘の正しさを認識させられることになったのだった。それについては、後日述べさせてもらうことにしたい。
最後に今一度ドナルド・キーン先生のご冥福をお祈り申し上げつつ…… (合掌)