幻夢庵随想録

《時流遡航294》日々諸事遊考 (54)(2023,01,15)

(専門教育や学術研究問題に思うこと――③)
 前述したように4年制大学だけでも850校前後が乱立する日本では、選り好みさえしなければ大学への全員入学が可能となっている。また従来の大学院に加えて、法科大学院などの専門職大学院や通信制大学院などが次々と新設されているほか、既存私学における新学部や新学科増設の動きは目に余るばかりである。今やこの国は大学や大学院の花盛り、名花だけならまだよいが、醜悪な色と香りを放つ怪花までもが咲き誇り我が世の春を謳歌している。
過去20年近くの間、国公立大学の新設は皆無に近いが、一方では驚く程の数の私立大学が新設されてきた。また近年は著名な諸メディア関係者らが、何時の間にか耳慣れない大学や大学院、研究組織の教授、准教授、講師などに名を連ねるようになっている。いまや、大学教員になるためには、基礎学問をじっくり修得するよりもテレビや雑誌で顔を売りでもしたほうが早道の時代のようなのだ。大学の質の低下を物語るなんとも痛ましい事態なのだが、そんな状況の背後にはいったいどのような事情が隠されているのだろう。
 この問題の発端は2004年4月1日付で改正された大学設置基準法や学校教育法にまで遡る。それ以前は、大学や学部学科の新設には、設置条件を満たしていることを第三者から成る公的機関に事前認証してもらう必要があった。だがこの法令改正によって、新設の大学や学部学科は、設立数年後にその教育や研究状況を自ら検証し、その結果を公表すればよくなった。公表された自己評価の公正さや透明性を保証するため第三者による事後認証制度の導入も規定はされているのだが、その検証法や認証機関の組織化は当初から暗中模索の状態で、いまだ明確な基準など定められていない。そもそも、専門的学術研究や教育内容のほか、それに関わる人材の評価も含む新設大学の事後評価など、現実には不可能な話なのである。また、最悪の評価が出たとしても改善勧告を出すのが精々で、大学や学部自体の廃止などできるはずがない。だが、そんな危惧をも顧みず、新大学等設置のプロセスは「事前検証評価」から「事後評価による認証」へと大きく転換することになった。
かくして、その実質や実態が真摯に検証されることなく、新たな大学、大学院、学部学科などが各地に続々と誕生することになっていった。「科学技術の進歩や複雑多様な社会の変化、さらには産学共同促進を睨んだ迅速な教育機関の新設には、事後評価による認証が望ましい」というのが基準改正の表向きの理由でもあったからである。その結果、一部に例外はあったものの、大半の新設私大や新設学部は各省庁役人の格好の天下り先になるという、実におぞましい事態を迎えるに至った。当初からそれが狙いでもあったのだろう。
 産学共同推進に伴う独立法人化政策によって、国立大学は運営経費削減に直面するようになったため、短期間での実績確保の困難な基礎科学分野などは研究費不足に直面し苦悩している。その学問の性質上、一定期間での実利的業績達成を旨とする産業界との連携は困難なため民間資金の導入は容易でない。基礎研究を軽視する国の科学に未来はないが、実学重視傾向の強い国家組織や産業界は、真摯な有識者の声や既存の主要基礎科学研究現場の悲鳴には一切耳を貸そうとしない。
だがその一方では国の教育費の驚くべき乱用が進んでいる。膨大な国費の投入に基づく文科省の私学振興助成金がその問題の病根なのだ。国内9割以上の私大(学校法人)への私学振興助成金の交付額は、各大学の教職員数を基礎に算定されている。助成金は教職員の給与、研究費、旅費、福利厚生費として使われるのが原則だからだ。特別な場合を除いては、施設費や設備費が助成対象となることはない。 
その助成費は一般補助費と特別補助費とに分けられる。一般補助では全教職員の給与総額のおよそ五割を助成し、さらに特別補助の名目で各大学の教育水準や充実度の評価に応じた助成金が上乗せされるが、現実には特別補助金もほとんどの大学に交付されている。私学助成金に関する文部科学省高等教育局私学部ヒアリング議事録によると、「教員数に対して学生数の少ない大学や学部学科はそれだけ質の高い教育をおこなっている」という評価がなされ、より多額の助成金が交付されているのだという。しかも、事実上その評価法のみに基づき助成金の配分が決められているというから、教員数が多く、かつ、学生数を教員数で割った値が小さいほど助成金の交付額は多くなるわけなのだ。
 そこで、「事後評価による認証」の新制度を逆手に取り、設置基準に適合する範囲でなるべく学生数が少なく、極力施設費のかからない大学を新設する。次に教員数を最大限に増やして多額の助成金獲得を狙えば、教育内容や学生の質にかかわりなくその大学は維持できる。そしてそこに各省庁の官僚らが教員や理事、職員として天下ることができれば、大学と官僚双方とっても都合の好いことこのうえない。大学のレベルがどうであれ、教授、准教授、講師などの肩書きを使えるなら社会的な見栄えもよい。それなりの俸給も貰えるうえ、その気になれば2年以上経過したあと元の省庁の郭外団体への天下りもできる。
大学設置基準には教員の資格を規定した条文があるが、それには、「芸術、体育等については特殊な技能に秀でていると認められる者」及び「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」という付加条項がついている。本来それらは、学歴はなくとも真にその道の実力をもつ貴重な人材を大学教員として登用するための補足条項だったが、多くの実務家に大学教員への道を開くため、文科省容認のもと、この条項は拡大解釈されるようになった。
より端的に言えば、諸省庁の官僚は皆、大学教職員に姿を変えて天下りすることが可能になったのだ。その実態を隠蔽するため、知名度の高い諸メディア関係者や芸能人らが「表の顔」すなわち「客寄せパンダ兼隠れ蓑」として大学教員に採用されるようになったのも、この補足条項の恩恵の故なのだ。また「教育研究上必要な場合は、授業を担当しない教員を置くことができる」という設置基準第11条なども「弾力的に」解釈、運用されているのがその実態なのである。
(「悪貨が良貨を駆逐」の典型)
 実際に2、3の新設大学を調べてみたが、各省庁の元官僚が教職員数全体に占める割合は予想通り極めて高かった。他大学においても同様の事態が生じていると見て間違いない。大学の定義自体が明確でないことも、「実務資格取得に特化された大学」、「専門学校や学部とのレベル差が判然としない専門職大学院」、「実務家教員が大部分を占める大学」などが乱立する原因になっている。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則の表現を借用すると、「悪教職員は良教職員を駆逐する。そして、悪大学は良大学を駆逐する」ということにもなりかねない。このままだと膨大な教育予算が天下り官僚らに食いつぶされ、その影響で将来を担うべき諸々の基礎研究は衰退し、大学の質は急速に低下してしまうおそれがある。残るのはメディア・芸能教授と官僚教授の跋扈する「妖智艶大学」だけだろう。

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