時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(6)(2018,12,15)

(固体の存在あってこそ誕生した自然数の概念 )
 言うまでもないことですが、この世界において数字の「1」に代表されるような自然数の概念が誕生したのは、その背景に「固体」と呼ばれる存在があったからにほかなりません。今更そんな説明など不必要なことでしょうが、固体とは、人間が基準としている時間尺度や知覚能力、さらにはそれに伴う認識様態を前提にして考えた場合、一定期間その性質や形状を同一の状態で維持し続けているような存在を意味しています。細胞レベルでは常時代謝を繰り返しながらも外見上は一定の性質と形状を保持し続けているように見える動植物などの各種生命体はむろん固体です。それら生命体などのそのような様相を説明する場合に、生物学者の福岡伸一氏らがよく用いる概念に「動的平衡」と称されるものがありますが、その概念を象徴するような特質を具え持つ我われ個々の人間もまた、立派な「固体」だということになるのです。
もちろん、固体のなかには、岩石類や各種の人工物などのように、動的平衡を保っては
いないもののその変化の速度が極めて遅いために固体と認識されるものもあるわけです。もし我われ人間が一億年単位の長寿の持ち主で、それ相応に、諸々の事象の変化を現在の百万倍以上も長い時間尺度で認識する習性があったとすれば、岩石類や人工物を固体とは考えないことだって起こり得るのです。また、逆に我われがフェムト秒(1千兆分の1秒)単位で高速変化する原子や分子の動きを知覚する能力や、それらの動きに伴う原子や分子の単体レベルの極微な増減を識別する特異な能力などを具えていたとすれば、その場合にも岩石や人工物の類は固体とは呼ばれなくなるかもしれません。そう考えてみると、固体の存在を前提とする「1」や「2」のような自然数概念というものは、裏を返せば、人間の知覚能力の限界や不完全さに伴う妥協の産物だと言えないこともないでしょう。
 またもやSFじみた話になってしまいますが、瞬時たりとも特定の形状に留まることなく常に変容を続け、しかも外部との境界も不明確な知的生命体があったとし、その生命体の生息域を取り巻く外界もまた絶え間なく変容し続ける流体様の存在だったとしてみましょう。そんな世界のなかにおいては「固体」という概念が生まれるのはほぼ不可能ですから、「固体」の存在を前提とする自然数の概念も誕生することはないでしょう。そして、そんな世界に棲む異質な知的生命体は、我われ人類にはまるで想像もつかないような思考体系や認識様態を具え持っているに違いありません。
時間、長さ、量などといった我われ人類にとっては当然至極な概念でさえも、その種の異界では何の意味も持ち得ないのかもしれません。また、たとえそれらしき概念があったとしても、それら計測概念の基礎となる諸単位などは我われにはまるで理解不可能なものであることでしょう。宇宙科学の分野などでは相対性理論や量子論をはじめとする様々な時間・空間がらみの理論が展開されていますが、それらは飽く迄「人間的な思考体系」に基づく理論であり、どんなに客観的にみえたとしてもそこには主観的観点、すなわち「人間原理」が潜在していることを忘れてはなりません。主観と客観をどう定義するかによっても両概念の相互関係には大きな違いが生じはしますが、いずれにしろそれら両者は実質的には相補的な概念であり、純粋主観も純粋客観も存在していないと考えるべきでしょう。
(「主観」と「客観」の背景は) 
 主観とはある特定の認識する主体(当面は一個の人間と考えてみてください)が、その精神機能や知覚機能を介して主体自身を含む世界の諸存在について感じたり考えたり認識したりする行為、さらにはその行為を通して得られる認識内容のことを言い表します。通常、主観的見解などという場合には、ある特定の人物の個人的な考えや感想、意見などのことを意味することがほとんどです。端的に言えば、主観とは自己意識を持つ個々の生命体が独自に思い描く諸々の思想や論理、世界観などに相当しています。
 その一方、客観とは特定の認識する主体から独立して存在する他者としての立ち位置、すなわち外的存在としての立場から諸事象を知覚したり認知したりする行為、さらにはその認識内容のことを意味します。むろん、客観的見解というような場合には、特定の主体が認識対象としたのと同じ事象を外部の者が他者としての視点から眺めたときに持つ認識様態や認識内容を意味することになります。そうしてみますと、一応、客観とは主観的な世界観と相対する世界観だということになりはしますが、実を言うと話はそう容易ではありません。客観性という言葉を耳にすると誰もが直ぐにわかったような気分になりはするのですが、深く考えてみるとこの概念には様々な問題が潜在しているようなのです。
「あなたの見解は主観的だ」などという言葉には、通常、「他にも異なる見方があり、その見解をそのまま受け入れるわけにはいかない」という批判的な含みが秘められているものです。しかし、客観的立場にあるつもりでその言葉を発した人間の見解そのものも他者から見たら主観的なものの一つにほかなりません。そうしてみると、客観的見解とは複数の主観的見解を平均したようなものになってしまうのですが、それもまたどこか現実離れした無責任な代物のように思われてきてしまいます。仮にまた複数の主観的見方の平均的概念を客観的見方だとして受け入れるとしても、それは個々の主観に支えられたものであるわけですから、主観と客観は相対する概念だとは言えなくなってしまいます。
 一般的に、科学の世界の基礎を成す各種の自然法則などは極めて客観的な存在だと考えられています。それらの法則は我われ人間などの主観的思考などとは無関係に自然界に内在し、それなりに機能していると見做されるわけですから、通常の意味でなら十分に客観的存在であると認めざるを得ません。しかしながら、一歩踏み込んだ視点に立って絶対的とされがちな自然界の法則を考察してみると、なお厄介な問題が浮上してくるのです。その一事例としてケプラーの法則、すなわち惑星運動の法則を取り上げてみることにしますが、より話を明確化するために、その法則に従って太陽のまわりを動く地球の運動について考えてみることにしましょう。高校の物理や地学の時間などに教わるように、地球は楕円軌道を描き、太陽はその楕円の二つある焦点のうちの一つに位置していることになっています。そして、その運動速度は太陽に最も近い地点(近日点)にあるときは速く、また最も遠い地点(遠日点)にあるときは遅くなることが知られています。もちろん、その楕円軌道を地球が一周するにはほぼ一年を要するわけです。敢えて「ほぼ」と書いたのは、時空的な認識尺度をより厳密にすると地球の軌道周回速度や運動様態にはばらつきがあり、周期や時間の法則というものをどう考えるかという難問が生じてくるからです。

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