時流遡航

《時流遡航246》日々諸事遊考 (6)(2021,01,15)

(コロナウイルス・ワクチン開発問題についての考察――――①)
 コロナウイルスの感染拡大とそれが人々の生活に及ぼす影響は、深刻化の一途を辿るばかりで収束の気配は感じられません。このような非常事態に直面した場合、それに対応する手法は、極論すると二つしかないように思われます。その一つは、最悪の場合、自らの命を含めた全ての生活基盤が失われるのも覚悟で、厄害が鎮静するまでひたすら我慢し耐え抜くこと、いま一つは、敗北の可能性も十分に弁えたうえで、人知の限りを尽くして真向からその厄害と戦うことでしょう。換言すれば、前者は、自然の摂理を信じ、どんな嵐も何時かは去りゆくものと自らに言い聞かせつつ、守りを固めて受動的に時を送ることに、後者は、リスクを恐れず科学力の限りを駆使して一刻も早く難事の解消に挑む行為に当て嵌るとも考えられます。自ら進んでマスクをし、他者との距離をとるように心掛け、集団的交流や大規模な催事を自主的に避ける対応策などは前者に、試行錯誤を繰り返しながらも急遽医療体制の再編成と強化を図り、厳格なロックダウン命令布告下のもとで迅速なワクチン開発に臨む対応策などは後者に属すると見做すべきでしょう。
 自然界との調和に重きを置く伝統的な東洋医学思想の流れを汲む我が国は、コロナウイルス発生に際し、当初、総じて前者の立場をとりながら事態に立ち向かい、その対応策は一時的に大きな成功を収めたようにも思われました。一部にはそんな社会の動向に異論を唱え、最新医療研究の知見に基づく慎重な科学的対応がとられるべきだと主張する医学者も存在しましたが、国内のコロナ対応策の流れは、当初、そんな見解をほぼ無視あるいは軽視したものになっていました。マスク着用や社会的ルール遵守に対する日本人の律義さと、それによる感染防護効果がマスメディアなどによって声高に称賛されもしましたので、国民全体が少々いい気分になり過ぎたと言ってもよいのかもしれません。
 しかし、ここに至って、コロナウイルスの持つ異常なまでの感染力の強さや変異の急激さが明らかになり、冬場を迎えてその爆発的感染拡大が危惧されるようになってきました。また、そんな状況を前にして、科学的な手法を駆使し真正面からコロナウイルスに戦いを挑む西洋医学的対応策へと方針転換を図らざるを得なくなってもきたようなのです。東西の医学医療思想にはそれぞれに一長一短があり、両者間の相補的関係の維持こそが本来あるべき理想像であると思われますから、この場でその優劣を議論したりするのはあまり意味あることではありません。ただ、ここで一つだけ気になるのは、西洋医学の見地に添う科学的対処法の象徴たるワクチン開発の問題です。
 諸外国ではコロナワクチンの開発が成功し一部の国では既に接種が始まってもいるようですし、日本でもそんなワクチンを大量に購入し一刻も早く国民に接種しようという動きになっています。しかしながら、心ある人々のなかには、一応は科学先進国を自負しているはずのこの国でなぜ独自にワクチン開発を図る動きがみられなかったのか、また当初から外国製ワクチンの導入に依存する政策をとったのはなぜなのかという、根本的な疑問を抱かれた方も少なくはないことでしょう。ましてや、国際的にも開催そのものが危ぶまれるなかで、「コロナ禍を克服した日本でのオリンピック開催」を世界に向かってアピールしようと画策する政治家が多いのを見るにつけても、我が国独自のワクチン開発促進の動きなど皆無に近かったこと自体、何とも不思議に思われてなりません。ただ、よくよく考えてみると、そこにはそれなりの深刻な事情があったと推測されるのです。
(試行錯誤に前向きな国か否か)
 新ワクチンの開発などは、我が国の為政者好みの「役に立つ科学研究」の典型的事例だと言ってもよいでしょう。直ぐには役に立たない諸々の基礎科学研究の重要性に無理解な当今の首相や閣僚らも、本来なら、彼らの好きな「選択と集中」という掛け声のもとでその研究促進を支えてもよいはずです。しかし、現実にはそのような展開に至らなかった背景として、いったい何があるのでしょう。その理由の考察くらいは必要かもしれません。
 実を言うと、通常の各種工業製品製造の場合などとは異なり、新ワクチン開発に象徴される新薬品創成の過程には、それに従えば確実にその生成が可能になる設計図みたいなものなど当初から存在していないのです。それは特殊な細胞や遺伝子の研究をはじめとする複雑極まりない生命科学研究の一般的特徴なのですが、その世界にあっては、たとえ大まかな指針が立っている場合でも、最終目的の達成までには途方もない回数の試行錯誤の繰り返しが求められるものなのです。そして、当然のことですが、そのためには膨大な量の基礎データ、多数の研究協力者、さらには莫大な費用が必要となってくるのです。また、研究開発担当者の独創性に富んだ極めて高い能力が不可欠でもあることは言うまでもありません。幸運に恵まれれば短期間で目的を実現できることもありますが、その確率が極めて低いものであることは、その道の関係者なら誰もが熟知している通りです。
 試行錯誤の連続を経てある科学技術開発や先端的応用科学研究で成果を上げようとする場合、それに対して研究者の属する国民性が大きく影響することがあります。たとえば、「科学研究に誤謬はつきものである」ということを暗黙の前提にして研究開発を展開する国と、「科学研究にはけっして誤謬があってはならない」という信条のもとで研究開発に臨む国とでは、その過程には大きな違いが生じてきます。前者のような風潮の強い米国などでは、開発された技術が完璧なものではなくても、また一定のリスクを伴う可能性があるとしても、まずは実際にその技術を使用してみて、もしも不具合が生じるようならその都度修正を加えて理想形に近いものに仕上げていけばよいとするのが普通です。たとえその一連のプロセスにおいて多額の損失や人的能力の浪費が生じたとしても、それは試行錯誤の過程を必然のもとする科学研究の宿命だと受け止めもします。また、本来の目的達成に至らなかったとしても、その研究推進の過程において、様々な副次的技術やアイディア、新事象の発見などが誕生することも少なくないと肯定的に考えたりもするものです。
その一方、後者のような風潮の強い日本のような国にあっては、当初から完璧に近く、社会的にみても極めてリスクの少ない技術開発でなければ許されないとする傾向が強いのです。それゆえ、限りない試行錯誤を前提とする研究類は回避されてしまうことが少なくありません。まして国家や民間企業の財政力に大きな翳りが生じている昨今では、製薬業界がワクチン開発に二の足を踏むのは当然のことでしょう。さらにまた、世界の先進的創薬研究開発では、放射光解析技術やスーパーコンピュータ機能を最大限に活用することは常識です。しかしその点においも国内の製薬業界は世界に遅れをとることになりました。

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