時流遡航

《時流遡航288》日々諸事遊考 (48)(2022,10,15)

(老いた身が小ドライブ旅行に托す想い――⑤)
 翌日の午前中、大脇君と鎌田君は、日帰りで東京からやってくるゴルフ仲間と合流し近くのカントリークラブでゴルフをやるとのことで、互いに別れを告げ合い私だけが独り別荘に残りました。そして、私は帰宅準備に取り掛かり、正午過ぎに大脇荘を辞したような次第でした。ところがその直後、恒陽台の坂道を下る途中で「血塚」と記された小さ案内板が目に留まったのです。その何とも生々しい呼称の由縁を知りたくなった私は、すぐさま案内板の差す脇道に入り、車が行き止まりになるところまで進むと、草むした路上に降り立ちました。来訪者など殆どないだろうと想われるその地で目の当たりにしたのは、何と目下放映中の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」にも深く関わる史跡のひとつだったのです。
静寂な樹林に囲まれた細い山路の入口近くには、古い石積みの塚とその由来を記した史跡解説板がひっそりと立っていました。1176(安元2)年10月、配流の身の源頼朝のために伊豆、駿河、相模の武士たちが奥野で巻狩りを催した帰途、伊東祐親とその長子の河津三郎祐泰とは、所領問題で恨みを抱く工藤祐経配下の郎党に襲われ、祐親は危うく難を逃れるものの、祐泰のほうは落命しました。そこで、その霊を供養するため殺戮現場となったこの地に「血塚」が設けられたというのです。曽我兄弟の仇討は歴史に名高い事件ですが、河津祐泰の息子に当たる彼ら兄弟は、父の恨みを晴らすため、17年後の1193(建久4)年、頼朝が行った富士の巻き狩りの際に工藤祐経を襲い、討ち果たすことになったのです。そんな歴史的仇討事件の原因発端の地に立ったのは文字通りの偶然でした。
 さらにまた、その「血塚」のすぐ隣に小さな祠があったのですが、その前に「源頼朝の馬蹄石」と呼ばれる露出した小岩が残されているのもちょっとした発見でした。脇に立つ案内解説板によると、その岩に刻まれた馬の足跡は頼朝の愛馬だった生月(いきづき)のものだと伝えられているのだそうで、その真偽のほどはともかく、それなりに興味深い史跡ではありました。解説文には、周辺一帯に頼朝に因んだ史跡が数々あるとも記されていました。
 さらにそこには、それら史跡の前を通り樹林の奥へと続くその草深い山路そのものについての案内板も設置されていました。「伊豆東浦の古道(旧下田街道)」と記されたその解説文によると、この山路は鎌倉時代から江戸時代、さらには明治期に至るまで、伊豆半島の東海岸筋を通る要路であったそうなのです。当時、伊豆の主要道は、東海岸を通るこの東浦路と、天城峠を越え河津を経て下田へと至る天城路のふたつしかなく、どちらも下田街道と呼ばれていたとのことでした。険しい地形や断崖の続く伊豆の西海岸沿いには現代のような要路はなく、西伊豆各地の海沿い集落は文字通りの秘境だったようなのです。 
江戸時代などには下田奉行の一行などが列を成してこの東浦路を幾度も往来し、松平定信などは何百人もお供を従え駕篭に揺られながら下田へと向かったと伝えられています。
1815(文化12)年、伊能忠敬が率いる測量隊がこの街道を通過した際に記した測量日誌には、前述した「源頼朝の馬蹄石」についての記録が残されてもいるようです。また、黒船来航の折、密航を企てた吉田松陰が下田を目指して懸命に駆け抜けたのも、この伊豆東浦路だったというのです。ただ、この古道は、1933(昭和8)年の県道(旧道)開通に伴い、荒れ果て、さらには寸断された状態で放置されてしまったようなのです。そのため、2008(平成20)年に至り、伊東市文化財等整備事業の一環として、この周辺の一定区間だけが往時の雰囲気を湛えた東浦路として再生復元されたのだとのことでした。
(久々に想い出した義父の箴言)
 伊東市の中心街を経て宇佐美へと抜けた私は、伊豆スカイラインの亀石峠口へと続く道に入り、集落から少し離れた高台にある墓地脇で車を止めました。そして、義父母や義弟が眠る墓前に立ち、暫し合掌をしながら長らくの不参を詫びました。北海道旭川市出身だった義父は、旧大蔵省管財局を退官すると、自ら望んで自然豊かな道東の弟子屈町へと移り、かつてその地にあった国家公務員共済会保養所「大鵬荘」の支配人を務めていました。ただ、その後、3人の子女が皆東京近辺で家庭をもつことになったため、以前伊東市にあった同共済会の保養所「光風閣」の支配人へと転じました。そしてそこで晩年を送っていた関係で、海の見えるこの宇佐美の高台の墓地で眠ることになったのです。
 当今の悲惨なウクライナ情勢などに想いを廻らしつつ墓参をするうちに、かつて陸軍士官学校卒の軍人だった義父が、ある時、意を決したように語り呟いた戦時中の熾烈な体験秘話の想い出が、老いたこの身の脳裏をよぎりもしました。その詳細については以前に本誌で述べたことがありますので(2015年8月1日号~9月15日号に掲載)、ここでその全容を繰り返すつもりはありませんが、それは甚だ衝撃的なものだったのです。そしてこの日も、凄惨極まりないその実話の結びの一言に激しく胸を突き上げられたのでした。
「平時には人一倍冷静沈着で優しく穏やかな者が――そう、虫一匹殺さないほどに生命というものに深い畏敬の念を抱いている人間が、己の死に直面した極限状態の戦場では異様なまでに変わってしまうものなんだよ。むしろそんな人間のほうが驚くほど勇敢に戦い、しかも敵に対して冷徹に、そして時には平然として残忍このうえない行動をとったりもするものなのさ。平時において偉そうな調子で勇ましいことを声高に叫んでいるような人間ほど、生きるか死ぬかの戦場では殆ど役に立たない。卑怯な手口を使って真っ先に逃げ出すのは、多くの場合そんな連中なんだよ。どんなに穏やかそうに見える人間の心にも鬼や悪魔は棲んでいるのさ。本田君、常々穏健かつ謙虚で、さらには他人思いの君のような人間こそ、生死の狭間にある戦場に出たら鬼へと一変してしまう可能性が高いんだよ……」
 それが義父の体験談の結びの言葉だったのですが、その箴言にはかつての義父自身の姿が重ねられていたのでしょう。むろん、その時の私には返す言葉などありませんでしたし、自分の心中深くにも冷酷無比な鬼が棲んでいることは間違いないと自覚もさせられたような次第でした。たとえ「平和ボケ」だと防衛強化論者から冷笑されようとも、その心中の鬼を生涯眠らせたままにしておくことができれば幸いですし、また極力そのように努めたいものだとも思いましたが、絶対にその鬼を目覚めさせることはないと断言できるだけの自信はありませんでした。義父が述べ伝えようとしたところは、一時代昔の名映画「人間の条件」の幾つかのシーンにもそっくりそのまま重なる感じのものもありました。
 ともかくもそんな墓参を終えた私は、そのあと一気に亀石峠を目指しました。好天だったこともあって、少々費用は掛かっても景観に恵まれた箱根スカイラインや芦ノ湖スカイラインを久々に走り、山中湖畔から道志路を経て府中の自宅に戻ろうと考えたからでした。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.