時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(11)(2017,07,01)

(ドナルド・キーンさんの「奥の細道」考証)
 そんなキーンさんによる「奥の細道」関連の講演会が催されたのは、尾形仂さんと私による講演のあった翌年のことだった。その講話は前年の尾形さんのそれとも重なるところがあったが、自他の新説や新解釈を多々交えての展開となったので、興味深いことこのうえなかった。学識豊かなキーンさんのことゆえ、当然、講演の内容は多岐にわたったが、大筋としては「奥の細道には事実と異なる記述があった」という前年の尾形さんの話をより深めていくかたちをとることになった。「フィクション部分があるからといって奥の細道の文学的価値が損なわれるわけではない。むしろそのことによって作品の芸術性が一段と高められている」とあらかじめお断わりになったうえで、キーンさんは説得力のある考察をもとにして幾つかのフィクション部分を的確に指摘されたのであった。
 どうやら、自らの作品を納得ゆくまで推考し何度も手直しするというのは、芭蕉の常であったらしい。したがって、数々の有名な芭蕉の句のなかには即興句はほとんど存在していないのだという。キーンさんや尾形さんと出合うまで、芭蕉は自然体のままですらすらとあのような秀句を詠んだとばかり思い込んでいた私などは、そんなキーンさんの話を聞いたあと、自分の無能さを棚にあげ、いささかほっとしたような気分にもなったりしたものだった。その折のキーンさんの講演概要を以下に紹介しておくことにしよう。
 山形県の山寺にある立石寺で詠んだとされる有名な一句、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が、完成に至るまでに4度ほど手直しされ、最終的には当初の句とはかなり違ったものになったという指摘は前述した尾形さんの講話にもあった通りだ。旅立ちに際し、見送りの人々との別れを惜しみながら千住あたりで詠んだとされる句、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」は、奥の細道の旅を終えたのちに作り加えられたものだという指摘も同様である。
 明らかにフィクションとわかるのは、日光で詠まれた、「あらたふと青葉若葉の日の光」
という句なのだそうで、曾良日記その他の資料などをもとに詳しく考証してみると、芭蕉らの日光来訪時は雨続きで、青葉若葉が日の光を浴びて輝いてなどいなかったらしい。
 これもまた尾形さんも指摘されたところだが、「石の巻」の段には、「山深い猟師道を迷い抜けてようやく繁栄をきわめる石の巻の町に着いたが、なかなか泊めてもらえるところが見つからない。やっと見つけた貧しい小家に泊めてもらい、夜が明けてから、また知らない道を迷いながら歩いていった」という趣旨の記述がある。だが実際には、当時の要港、石の巻周辺の道路はそれなりに整備が行き届いていて迷うようなことはなかったはずだし、泊まった家もほんとうは地元の豪商の立派な邸宅だったのだそうである。芭蕉があえて事実と異なる記述をしたのは、彼自身は資産家と深い縁を結ぶことを誇りとは思っていなかったうえに、石の巻周辺の栄華ぶりが自ら理想として想い描く、また西行ら昔の歌人の歌にあるような陸奥の情景とは違ったものだったからではないかと考えられるという。
 荘厳に輝く中尊寺光堂に感動して詠んだと伝えられる、「五月雨の降りのこしてや光堂」
の一句についてのキーンさんの考察は驚嘆に値するものだった。曾良日記によると、光堂を包み守る覆い堂には錠がおろされていて、実際には芭蕉たちは中をみることができなかったというのである。芭蕉らが中尊寺を訪ねた日の前後は天候不順で雨模様だったうえに、覆い堂の鍵を預かる別当(光堂と覆い堂の管理者)は仙台に出向いて不在だったことも検証されたのだという。だから、奥の細道のクライマックスの一つとして欠かせない光堂を、芭蕉は想像力を駆使し、心の眼で透視し、その心象風景を歴史的な名句として詠みあげたことになる。それはもうただただお見事というほかはない話だった。
 現在の400字詰め原稿用紙で35枚ほどの「奥の細道」を完成するのに、芭蕉は5年もの歳月をかけたことが明らかになっている。キーンさんは、その理由について、俳句の部分ばかりでなく散文部をも含めたその作品全体を、極めて完成度の高い詩篇ないしは詩物語として仕上げようという意図があったからだろうと、語っておられた。壮大な旅路での数々の実体験が芭蕉という稀代の天才の心のなかで一度濾し分けられ、それが深い感動を伴う究極の心象風景となって、「奥の細道」という普遍性の高い作品へと昇華し結実したのだと、おっしゃりたかったに違いない。実際、そうだからこそ、奥の細道は外国の人々にもこよなく愛読されるのであろう。
(六曲がりの古道と中山越え)
 いささか余談にはなるが、なるべく労なくして奥の細道の旅の追体験をしてみたいという、無精で欲張りな方々のために、とっておきの情報を提供しておくことにしよう。国道47号線を鳴子から新庄方面に向かって走ると「尿前の関」跡に出る。どうやらその記述自体もフィクション気味のようなのだが、芭蕉一行が役人にその身分を厳しく問われ、足止めを食らったとされているところでる。その関跡を右手に見ながら通過し、しばらく坂を登ると、谷を横切る大きな橋にさしかかる。車を降りてその橋のたもとから谷筋沿いに細道を辿ると、ほどなく清流のほとばしる深い沢に入る。頭上はうっそうとした樹木に覆われ、初夏の頃だと、どこからともなく澄んだ小鳥の声が聞こえてきたりもする。
 よほどの物好きくらいしか通ることのない隘路だが、この道こそは芭蕉一行が折からの悪天候と戦いながら越えていった小深沢の六曲がりの古道にほかならない。当時のままの様相を留めているのは旧道のごくわずかな部分にすぎないが、行く手を遮る大小の樹木の枝々の下を左右にくねり縫う急傾斜の細道は、元禄時代の中山越え(奥羽山脈越え)の苦労と、当時の旅の雰囲気のほどを十分に偲ばせてくれる。もう20年以上も前に、私も実際にその地を歩いてみたことがあるが、芭蕉や曽良の話し声や足音がいまにも聞こえてきそうで、なんとも感慨深かった。往復で40分程度しかかからないから、芭蕉通を自称する方々は一度訪ねてみるとよいだろう。
 芭蕉一行はこの山道を登り詰めたあたりで激しい風雨に見舞われ、やむなく出羽国境の村役人の家に三日ほど逗留することになった。そして、そのときに詠まれのが、かの有名な「蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと」という一句である。キーンさんは、その折の講演のなかで、この句は芭蕉の旅の精神の真髄を象徴するものだと賞賛しておられた。もちろん、そこに詠み込まれた情景が文字通りの事実であったかどうかではなく、あくまで芭蕉が心血を注いで練り上げた芸術作品の中の一句としての観点からの見解ではあったのだが。奥の細道の記述に従えば、芭蕉と曾良は、天候の回復を待ってから、若い屈強な山案内人の先導で道なき道を分け進みながら山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越え、尾花沢の集落へと抜けていったわけである。

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