時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(5)(2013,05,15)

府中市教育センターでの教職員向け講座が発端となり、新設されたばかりの府中市生涯学習センターにおいても、市民向けパソコン講座の講師を担当させられることになった。オペレーションシステム言語DOSの基本機能学習に始まり、LOGO言語によるプログラミンやグラフィック処理技術の学習、さらには国内に登場したばかりのパソコン通信(インターネットの前身)のデモンストレーションなどが主な講義内容であったが、受講者には好評だったようで、同講座はその後何年間も続くことになった。実はこの講座の中で一度だけ風変わりな講義を試みたことがある。それは「ウイルス」についての講義であった。

パソコン通信(その状況については後に詳述)自体が珍しかった当時の日本では、ウイルス問題を気にする市民など皆無に近かった。だが、パソコン通信やインターネットの先進国アメリカでは既にウイルスやハッカーの存在が社会問題になっていた。そのため、将来起こり得るその種の状況を想定し、そんな大胆な試みに挑戦したようなわけだった。

誤解のないように断っておくが、むろん、受講者にウイルスの作成法を指導したわけではない。事前に初歩的なウイルス数種とそのワクチンのモデルを自作し、ウイルスのほうはその日起動させるデモンストレーション用グラフック処理ソフトの中に組み込んで(感染させて)おいた。そして、グラフック作業の途中で特殊なキー操作を行なったり、一定時間が経過したりすると、制作中のグラフックに不可解な変化が生じたり、不意に画面が消去されたり、予想もしないようなメッセージが突然表示されたりすることを実際に体感してもらった。さらにまた、そのあとでワクチンを呼び込んで機能させると、ウイルスに感染したグラフィックソフトが正常に復元されることを確認もしてもらった。「トロイの木馬」などと呼ばれる特殊で巧妙な仕掛けも、ウイルスとかワクチンと呼ばれる類のものも皆一種のコンピュータプログラムであることを、ごく単純な事例を通して具体的に理解してもらい、将来に備えての心構えだけはしておいてもらいたいというのがこちらの狙いだったのだ。ただ、公的な場所でそんな型破りの講義をしたのは私だけだったに違いない。

(年末に突然の原稿執筆依頼が)

当時のコンピュータ専門誌「PCマガジン」編集部から、学校教育用のLOGO言語や同言語を搭載するパソコンの標準仕様問題について緊急の原稿執筆依頼を受けたのは88年12月下旬のことである。その頃、教育界と産業界からの要請を受けて文部省と通産省が共同で設立した公益財団法人に「コンピュータ教育開発センター(通称CEC)」という組織があった。CECは日本のコンピュータ教育の進むべき道や理念を模索し、教育に適したソフトウエア、ハードウエア、システム環境などの開発方針を策定するための組織で、その主要メンバーは文部・通産の両省や電事連からの出向者、コンピュータ教育推進に特に熱心だった筑波大学教育学部教官らによって構成されていた。そして、この組織は将来的にはコンピュータ教育に対して強い発言力と影響力を持つようになると期待されていた。

当時CECはB―トロン使用の教育用システムの研究開発をはじめとする諸事業に取り組んでいたが、その一環として教育用言語LOGOの標準化を行おうとしており、そのため、12月20日付で、CECの会員企業とごく一部の大学関係者のみに宛てて、標準仕様案についての56ページにわたる諮問文書を送付した。しかも、その諮問文書には、LOGO言語仕様案に対する検討結果を翌89年1月9日までにCEC宛に提出するようにとの指示が記載されていた。だが、事実上評価作業の極めて困難な年末年始の時期に重なっていたばかりでなく、客観的に見てその仕様案には再検討を要する問題点や修正不可欠と思われる箇所などが甚だ多かった。しかも、初等教育向けLOGO言語専用機種の開発・販売で先行するある国内メーカーのLOGO言語仕様とほぼ同じ内容になっていた。その仕様案の検討を迫られ困惑したある大手メーカー2社の責任者が、部外者には非公開とされていた仕様案と諮問文書のコピーをPCマガジン社編集部に持ち込み、同編集部を介して私にその内容の評価と問題点の指摘をして欲しいと要請してきたようなわけだった。

CECの仕様案を一瞥して最も問題点だと思われたのは、そのままの仕様だとLOGOは初等教育現場における単なるお絵かき言語だと誤解されかねないばかりでなく、中等・高等教育における数学や物理の学習には不適切なことであった。それまで筆者が応用研究を進めていた3D―LOGOや高等教育での活用をも狙った他のLOGO仕様からすると、明らかにその仕様案には将来的な展望が欠けていた。LOGO言語開発の元祖であるMITのシーモア・パパートやマービン・ミンスキーの理念とも些か異なるものでもあった。

(CECからの意外な警告文書)

「PCマガジン」誌から懇請された私は、年末年始時に突貫作業を行ってCECの仕様案を冷静に分析し、純粋に教育的な視座に立って客観的な評価意見を執筆した。諮問文書と仕様案そのものは本来CECの関係者のみに配布された非公開文書だったので、同誌の編集長は、その段階で、CECの諮問文書入手先や記事執筆者名は秘匿のうえで、次号において独自の評価意見を掲載する旨をCECに報告し、掲載記事内容に異論や反論があるなら、公平を期すためにも、遠慮なくそれらの主張を同誌上で開陳して欲しいと申し出た。

だが、それに対するCEC側の反応は甚だ過剰で、「関係文書の入手先や記事執筆者名を直ちに上申すべきこと。CEC関係者以外には非公開の書類内容を一行でも引用した場合には告訴も辞さないこと。記事筆者名の事前通告がない場合には、雑誌発行の段階で当該執筆者を召喚し査問する用意のあること」などを公文書もって仰々しく通告してきた。先方は筆者が一種のブラックジャーナリストで、利権絡みの問題を取り沙汰するのではないかと警戒していたからのようであった。

CECの過剰反応の裏にはそれなりの事情が秘められていたのかもしれないが、当方の論旨は極めて冷静かつ客観的で、真摯に未来の教育の発展を願ったものになっていたから、そんな思惑など一切無関係だった。雑誌発行人、顧問弁護士なども加わって対応策を検討した結果、問題はないとの判断に至ったので、3号にわたり私は堂々と署名記事を執筆する運びになった。そして結局は告訴や召喚を受けるどころか、こちらの意見が評価され、CECのLOGO関連部局者が総入れ替えになるという事態になった。私がブラックジャーナリストではなく、認知科学やコンピュータ科学研究グループの主要メンバーで、多くの先端研究者とも親交があり、CECにも知人がいることなどが明らかになったからのようだった。CECから送付された警告の公文書コピーはいまも手元に残っている。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.