時流遡航

《時流遡行》コンピュータから見た人間の脳(筆者講演録より)――(1)(2017,01,15)

(コンピュータと認知科学の誕生について)
 1997年の夏、私は文筆関係者主催のある集会で講演を行った。そのときの講演録の起こしが手元に残っていたので、それを本誌の森下正章編集長や長年筆を執っていた「選択」誌の元編集長恵志泰成氏に見せたところ、20年後の現在にあっても遜色のない重要な内容だということで、本誌への掲載を要請された。そこで、現在連載中の「夢想愚考」を一時的に中断し、その内容をご紹介することにしたい。
(コンピュータと認知科学)
 コンピュータサイエンスと申しますと、一般的にはメカニカルで非人間的なものだというイメージが強いのですが、実際には必ずしもそうではないのです。
 人工知能をはじめとするコンピュータサイエンスは、「認知科学(Cognitive Science) 」と呼ばれる学問分野に属しております。この学術分野は比較的新しいもので、1960年代の半ば頃から、米国を中心にしてその研究が盛んに行われるようになりました。現在コンピュータサイエンスの最先端に関わる人たちのほとんどは、この認知科学の立場から人工知能をはじめとするその分野の研究を進めているわけなのです。人間の五感による認知機能や第六感などと呼ばれる内的思考力のメカニズムを、神という名の超越的存在に委ねるのではなく、人間の理性に基づきなるべく明確な説明づけをしていこうと試みたのはギリシャ人が最初でした。いわゆるギリシャ哲学、換言すれは、合理性重視の科学的思考法が誕生したわけです。そういったギリシャ哲学そのものの理念は素晴らしいものだったのですが、残念なことに、彼らにはその理念を実現するための確実な方法がなかったのです。
 ところが、60年代半ばに、このギリシャ哲学の古典的問題をもう一度根底から考えなおしてみようじゃないかという動きが米国を中心に起こったわけで、その際、多くの研究者たちが強力なツールとして着目したのがコンピュータでした。コンピュータというものを媒介に、理系文系の枠を超え、自然科学、社会科学、人文科学、文学、芸術など、あらゆる分野の最先端の研究者の英知を結集し、もう一度人間の根源的問題を考えてみようという機運が生じたわけで、それが認知科学という新たな学問領域へと発展していったのです。
認知科学においてはコンピュータはオグメンテーション・ツール、すなわち、思考増幅の道具として、別の言い方をすれば、思考の顕微鏡、思考の望遠鏡として位置づけられたのです。コンピュータというものを、人間の思考を飛躍的に拡大発展させる補助手段だとみなした訳なのです。心の顕微鏡、心の望遠鏡と考えてもらってもいいですね。
むろん、シミュレーション・ツールとしてもコンピュータは重要視されました。脳の研究などで、コンピュータ技術を活用してシナプス(脳神経細胞)のモデルをつくり、人間の脳内で起こっている現象を詳細に調べるわけですね。また、コンピュータにはデータを高速処理する能力がありますから、複雑な立体構造をもつ図形の処理に応用されたり、医療診断システムの頭脳として活用されたり、核磁気共鳴反応を応用した脳の断層写真撮影、さらには脳の構造の解析そのものに用いられするようにもなりました。 人間の思考の中枢は脳にあるわけですから、脳内各部の活性反応を調べながら、そこでどのようなことが起こっているかを実際に検証してみる。また、一種のバーチャルリアリティ(疑似的人工仮想現実映像)技術を活用して精密な脳の立体映像をつくりだし、こういうメカニズムが働いているのではないかと推定しながらいろいろと細かなチェックを行っていくのです。
コンピュータを極力駆使して、文学や芸術の分野をも含めた様々な立場の人の知恵を結集し、人間的能力の諸々の特質を根本的に検証しなおそうというわけですから、認知科学とは学際的でしかもたいへんダイナミックな研究ジャンルなんですね。ただ、日本ではそのことはまだよく知られてはおりません。日本で認知科学会が発足したのは80年代半ばです。当時の若手研究者ら……、今は彼らも指導的研究者になっていますが、そんな研究者らが主体となって認知科学会を結成しました。いま私はフリーランスの身になって雑文ライターをやっていますが、以前は専門研究者として少々その分野の研究にも関わっていましたので、そのあたりの情報をもとにして、この一連の話を進めていこうかと存じます。
(コンピュータの評価は冷静に)             
コンピュータの研究に携わっている人間というと、世間では冷たい非人間的な存在だと誤解されがちなんですが、最近のコンピュータサイエンスの最も原理的な部分に関わる研究者たちは皆、人間というものがどんなに凄い存在であるかということを再認識させられているありさまなのです。コンピュータサイエンスの研究を究極的に進めていくと、結局は、人間とは何かという問題に行き当たらざるを得ないからで、そこであらためて人間の具えもつ能力や諸機能の素晴らしさを実感させられるわけなのです。
昨今は、各種のゲーム類でコンピュータが人間のチャンピオン級プレイヤーを打ち負かしたとかいったような話題がマスコミを賑わすようにもなりました。むろん、それは興味深くかつ重要な出来事ではあるのですが、その一方で、私達はこの種のニュースの裏に隠されている問題についても、もう少し深く考えてみなければならないでしょう。コンピュータが人間に勝ったからコンピュータは凄い、人間はもうコンピュータに支配されるしかないなどと思うのは早計だからです。
 もしもそのコンピュータが人間と同じような、ヒューリスティックと言いますか、極力無駄を少なくした効率的な思考方法を自らの力で生み出し、それによって勝利したというのならそれなりに評価はできるのですが、そんなことなんかやってはいないんです。人間的な思考法を自動的に学習し、それらをプログラムとして取り込むようにしてあるとはいえ、そのような処理手法をコンピュータに習得させるようなアルゴリズムをコーディングしたのは、詰まるところ人間にほかなりません。これまで以上に優れた情報処理能力をもつコンピュータは今後も次々に開発されるでしょうが、自ら興味深い問題を発見したり、さらにはその問題解決の手法を自動的に生み出したりするような、主体的意思や目的意識を具え持つようなシステムの構築はなお不可能だからです。それはまだ遠いSFの世界の話に過ぎません。
 ゲームを例にとりながらいま少し分かり易くお話ししますと、総合的に見てコンピュータが人間の能力と同等あるいはそれを超えたと判断できるのは、各種ゲームで人間を打ち負かした時点ではなく、囲碁、将棋、チェス、トランプ、ルーレットのようなゲームそのものを詳細なルールを含めて、コンピュータ自体がその自由意思のもとで考案創出したときだと申し上げてよいでしょう。現存するゲームはどんなに高度ものでもすべて人間が創造したものですから、そのゲームでコンピュータが人間を圧倒するようになったとしても、それほど驚いたり不安になったりする必要はありません。
 科学研究の世界で人間が行うと一生涯かかるような高度な計算をコンピュータなら数秒で処理できはしますが、だからといって科学者らが絶望したりするようなことはありません。研究課題や研究手法を自ら設定することなどコンピュータには不可能だからです。

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