独断の謗りを恐れずに言えば、福島第1原発の事故が起こるまで、電力会社というものは、単に電力の供給を担うばかりでなく、一種の巨大な金融機関、あるいは政財界に対する絶大な支援・制御システムとして、隠然たる影響力を揮ってきた。機能的にはむしろ後者の役割のほうが大きかったのではないかとさえ思われる。そして、その強大な力の源泉となったのは、有無を言わさず広く国民から徴収されてきた莫大な電気料金、公共性を理由に認められてきた資産管理や税法上の各種優遇処置、さらには存在するだけで高い資産評価の対象となってきた数々の原発関連諸施設群などであった。
(実に根深い原発問題の特異性)
原発の立地する地方自治体が原発絡みの各種関連事業や固定資産税、潤沢な交付金・補助金・補償金の類のお蔭で発展繁栄してきたのは周知のことだが、大量に電力会社の株式を保有する東京や大阪などの大規模地方自治体も間接的にはその恩恵に預かってきた。直接に原子炉の建設や保守管理に関わった三菱、東芝、日立、日本製鋼などの大企業は無論、全国に散らばるそれらの傘下の無数の中小企業群も直接間接に原発から生じる多大な利益に浴してきた。また、東大・京大をはじめとする国立大学や国公立の諸科学研究機関なども各電力会社から多額の支援を受けてきた。さらに、筑波のPhoton Factoryや兵庫のSpring-8のような、世界最先端の技術と研究水準を誇る放射光科学研究施設等の建設運営に際しても、国からの資金のほか、電力各社の原発事業絡みの潤沢な資金が日本原子力研究開発機構などを介して供与され、大きな貢献を果たしてきたと言われている。
原発のもたらす恩恵云々の話になると、常々、直接にその影響が現れやすい原発立地自治体だけが矢面に立たされてきたが、間接的な側面を考慮すると国民誰しもが何らの利益を受けてきたことは紛れもない事実なのだ。純粋に基礎科学技術の研究のみに話を絞ってもその事実は否定できない。大飯原発の再稼働が問題となっている関電管内には、前述したSpring-8(高輝度放射光科学総合研究施設)のほか、SACLA(X線自由電子レーザー研究施設)、スーパーコンピュータ「京」、さらには京大や阪大の各種大規模実験施設など、大電力を消費する日本の国家基幹技術研究関連の先端科学研究機関が集中している。もちろん、最新の諸技術を開発している民間企業の研究所なども数多い。
それらの施設で研究開発される革新的な先端技術や諸々の学術業績は今後の日本の発展を根幹で支えるものばかりだから、たとえ一時的なものであったとしても、それらの施設のフル稼働を抑制することは国力発展の阻害に繋がってくる。実際、この夏場、それらの施設は大幅節電を迫られており、その結果、フル稼働ができない状態にあることは明らかで、大飯原発の2機が再稼働した現況下でも、継続中の諸研究がかなり滞ることは避けられない。一刻の遅れが致命的となるほど熾烈な国際競争の最中にあって、その遅滞は大きな国家的損失にもなりかねないのだ。無論、それらの施設だけに優先的に電力を供給するという手段もあるだろうが、大幅節電を迫られている関電管内の全住民の理解を得ることは不可能だろうから、その方策に現実性はまるでない。反原発機運が今後急速に高まり、再稼働した大飯原発3・4号機を再び停止させざるを得ない状況になった場合には、当面、そのような負の影響が生じることだけは十分に認識しておかねばならないだろう。
もちろん、現段階でも国内原発の即時全廃が可能だというなら、その方針を支持することに異存はない。だが、その場合、安全な次世代エネルギーやそれに対応する諸技術が開発されるまでの間、我々国民は、様々な面での生活水準の低下や文化の停滞、諸物価の高騰、所得の減少などに耐え抜く覚悟が必要となろう。一見したところでは、大飯3・4号機以外の原発が稼働停止している現況下でも日本全体のエネルギー事情や経済界の動向に大きな影響はないように思われるかもしれない。だが、火力発電用の天然ガス輸入に要する膨大なコストの累積や、電力供給以外の多くの面で電力会社が産業界で果たしてきた諸機能の低下の影響は、長期的にはともかく、少なくとも一時的には、日本の国力を削ぐボディーブローとしてじわじわと効いてくることだろう。
もし全原発の廃炉を目指すにしても、そのためには避けて通れない負の側面、すなわち、廃炉に伴う分相応のリスクを国民全体が長期に亘って受忍する覚悟が求められる。7月に福島第1原発4号炉の燃料貯蔵水槽から未使用核燃料のごく一部が試験的に抜き取られたが、その作業工程だけでもけっして容易なものではなかった。ましてや、多数の使用済み核燃料を抜き取り、それらを安全に処理・撤去するとなれば、膨大な時間とコストと労力がかかる。メルトダウンの状況が最も酷いという2号炉にいたっては、その対処法さえ皆目見当がつかない有り様だから、完全廃炉が実現するまでに必要な時間、費用、労力、さらにはそれに伴う諸々のリスクは途方もないものになってしまう。
(非現実的な安全理念は放棄を)
既に述べたように、原発の廃炉に伴う最大の難問は使用済み核燃料の最終処理場の選定だ。使用済み核燃料の再処理工程を通して生じる半減期の長い危険な放射性廃棄物は、ガラスで固めて頑丈なスチール缶に封入し、厳重な管理のもと地中深くに埋め込むしかない。使用済み核燃料を直接処分する場合でも最終的にはどこかの地中に埋蔵処理するしかないだろう。原発が登場した当初は米国も日本も使用済み核燃料や各種放射性廃棄物を海洋投棄していたようだが、最早そのようなことは許されるはずもないからだ。
国内の原発の使用済み核燃料のほとんどは各原発内の施設に一時保管されているが、既にその収容能力は限界に近づいており、原発を廃炉にするか否かに拘らずその対応策は喫緊の課題となっている。以前から「トイレなきマンション」などと揶揄されてきたその深刻な実態がいよいよ表面化してきたわけだ。1万年もの遠い将来、何らかのかたちでそれが負の影響をもたらす可能性があるとしても、何百年単位の近い将来の安全確保のためには、もう国内のどこかに「トイレ」、すなわち使用済み核燃料の最終的な埋蔵処分場を設置するほかはない。北海道の天塩川河口に近い幌延周辺の地下深くで使用済み核燃料の先導的な埋蔵処理の研究が行われているようだが、最早、試行レベルの話ではなく現実に最終処分場建設を遂行しなければならない段階を迎えているのだ。将来的に百パーセントの安全確保が不可能な場合には、相対的にリスクの少ない方策を選択するしかない。非現実的な安全理念を振り回すだけで、自らは僅かなリスクをも担うことを拒み、負の選択を全面回避するだけの状況が続けば、この国はいずれ絶望的な状況に陥ってしまうだろう。