(プラグマティズムの意味を再考する)
この社会において「役に立つ」という概念は極めて重要なものだとされており、その概念に沿う行為や業績は無条件で高い評価を受けている。それゆえ、我われは「役に立つ」という言葉の意味そのものを深く考察するようなことはない。有用性や実益性、実践性などを特に重視する社会思想はプラグマティズムと呼ばれている。プラグマティズムは19世紀から20世紀にかけてのアメリカを起源として世界中に広まっていった。「思考や観念の意味と真理性は、それを実践的行動に移した結果の有効性如何によって明らかにされる」とするこの思想は、ともすると現実生活と結果最優先の実用主義と受け取られがちだが、けっしてそんな短絡的なものではない。あくまでも諸々の真理の探究や深い論理思考を前提としたうえで、それらの理念の具体化、実践化、実用化を促す思想なのである。
これまでも折々述べてきたように、「役に立つ」という概念は過去の諸生活体験やそれらを通して形成される社会的価値観に立脚している。したがってその考え方に傾き過ぎると、現時点では実益性は皆無だが将来的には大きな社会貢献をするかもしえない研究などは一律に無視あるいは軽視されることになる。それでもなお、それらの研究に携わる人々が地道な努力を続けられるならまだよいが、そうでない場合には新種の花々や果実の誕生へと繋がるはずの萌芽がそのまま死んでしまう。プラグマティズムの元祖であるアメリカは世界一のノーベル賞大国だが、基礎科学への評価が主体の同賞受賞者がそれほどまでに多いことを考えると、プラグマティズムが単なる実益主義などではないことは明らかだろう。
最終的には社会的実利や実益を目指すプラグマティズムの場合でも、その起点では実践性や実効性などまるで不明な理論や論考が絶え間なく生まれたり消えたりしているのだ。実のところ、その時点では何に役立つのかわからない基礎科学をアメリカ社会は重要視しており、その基盤あってこそのプラグマティズムなのである。アメリカの大学や研究所は国の資金ばかりでなく民間企業の多大な寄付などによって支えられている。研究者としてのポストや資金の獲得競争は日本以上に厳しいが、いったんそれらを獲得すれば、研究内容そのものは自由であり、資金供与者がたとえ民間企業であったとしても、その使途を細かく規制されたり報告させられたりすることはない。そんな土壌から基礎研究が芽生え、実利実益という名の花々や果実を生みもたらしていくことになるのだ。
一方で日本の事情はどうなのだろう。今年は大隅良典東工大栄誉教授がノーベル医学生理学賞を受賞し、3年連続で日本の基礎科学が評価されたと国民は大喜びだ。だが、過去3年の国内受賞者だけに限っても、皆が皆異口同音に日本の基礎科学の危機的状況を訴えかけている。喩えるなら、「弱々しい若木の頃は何の樹とも知れない存在だったものが風雪に耐えて大木となり、幸運にもまだ誰もが見たこともないような実を枝先につけることができた。それが現在の我々の姿にほかならい。だが、昨今の日本の山野からは将来社会に貢献する新種の果実をつけるかもしれない若木が、無用樹として容赦なく駆除されている。この世界が発展するには、現在の価値観ではそれらが無益なものに見えるとしても、一定割合の無名の雑木や珍種奇種の若木だけは常に育て続けなければならない。それができない日本の現状を我われは心底悲しみ危惧せざるを得ない」と言っているようなものなのだ。
そこには何があるのか、いったい何が起こっているのか、それはなぜなのか――といった動機がもとで一途に探究を進めていくことこそが基礎科学の真髄である。もちろん実益優先の応用科学は重要でありそれが科学研究の大部分を占めるのはやむを得ないが、せめて全科学分野の3割くらいは基礎科学研究で占められるべきであり、国家予算の配分もそのような比率に対応するべきであろう。
今年度の物理学賞はアメリカの3研究者に授与されたが、その研究を根底で支えたのはトポロジー(位相幾何学)という純粋数学の思考概念だった。そもそも数学の研究はノーベル賞の対象とはならないし、極めて高度かつ抽象的で異質な概念を駆使するトポロジーは、誕生当初、実用的な意味では何の役にも立たなかった。現在では微分トポロジーをはじめとして様々な実践的応用がなされているし、「特異点(singularity)」というその概念などまでもがもてはやされているが、そうなったのはごく近年のことである。私自身非力ながらかつてトポロジーを専攻していたので、そのことは痛いほどよくわかる。トポロジーの知識を実用面で私が活用したのは、趣味の知恵の輪制作くらいのものである。
(基礎科学衰退を危惧する人々)
愛知県岡崎市には自然科学研究機構がありその傘下に分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所の3研究組織がある。今年度のノーベル賞受賞者の大隅教授は13年間この研究機構に所属し基礎研究に携わった。この自然科学研究機構の施設のひとつに岡崎コンファレンスセンターがあり、そこでは国内の科学研究者らが集結して各種の学術会議が催される。08年に日本学術会議第3学会の会議が開かれた際、不肖な身ながらもその席での講演者の一人に任じられたことがあった。当時の野依良治前理化学研究所理事長、中村宏樹分子科学研究所長以下、80名ほどの錚々たる学術研究者が参加する会議であったが、講演後に行われた討論会においては、厳しい日本の学術状況を訴える意見が続出した。
04年の国立大学の独立行政法人化に伴い大学への運営費交付金が大幅削減され、個々の研究者は競争資金の獲得に奔走せざるをえなくなっている状況も明かされた。そして、その流れの中で基礎科学に対しても行政筋から「何の役に立つのか」という愚問が浴びせられるようになり、それに答えられない基礎研究者は研究費を獲得できないという事態が生じていることも指摘された。その場には、基礎科学の重要性を熟知している文科省の学術部門担当者や、元々優れた基礎科学の研究者で、その時点では競争資金を管理する立場だった故北澤宏一日本学術振興機構理事長の姿もあったが、最後まで適切な対応策や解決策が提示されることはなかった。
若手の研究者からは、「我われの世代ではもうノーベル賞を獲得することは難しい。当面はともかく、いずれノーベル賞冬の時代がやってくる」という声が上がりもした。当時東大の化学部長の任にあった人物などからは、「最早頭脳流出は避けられそうにない。我われは自らの子女を海外で学ばせるしかなくなったのだろうか」という悲痛な呟きさえも発せられるほどだった。すべては日本の国家財政事情の逼迫に因るのだろうが、「役に立つ」ことを標榜しながら実は呆れるほどに国費や公費を浪費して恥じないこの国の政治屋や行政屋こそ、基礎学術界に冬の時代をもたらそうとする張本人にほかならないだろう。