時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (18)(2020,06,15)

(困難な事態に遭遇してこそ目覚める本質的な精神)
 先々の見通しが全く立たない不安な状況に追い込まれたり、あまりにも苦渋に満ちみちた前途を提示させられたりすると、ほとんどの人は未来を見つめることをやめ、今日一日をどう生きるかということだけに執着するようになります。登山の世界に喩えるならば、高く聳える遥か遠くの山頂を仰ぎやると、そこに至るまでの数々の艱難が偲ばれ足が止まって絶望感に襲われたりもしかねないので、当面は足元だけを見据え、行く手には一切目を向けないで歩いていこうと思うようなものです。「千里の道も一歩から」という古来の諺に通じる話でもあるのですが、その一歩を踏み進むことにさえも大きな不安や苦痛、ひいては絶望感さえもが伴うような状況だとすれば、もう歩くのをやめ半ば自暴自棄な気分になってその場に居座り続けるか、来た道を引き返すかのどちらしかありません。
 しかし、誰しもが辿る人生行路というものには、峻嶮な登山道や果てしなく続く実際の街道などとは本質的に異なっているところがあります。当人の意志とは無関係に時空の流れに促され、道そのものが絶え間なく変遷推移する人生行路の途上あっては、同じ場所に留まることも来た道を引き返すことも許されません。絶命しこの世から消滅してしまうまでは、如何にそれが堪え難いものであろうとも、我われは皆、各々の身に宿命づけられた人生行路を自分なりの足取りと歩調で地道に進んでいくしかありません。新型コロナウイルスという難敵が不意に現われ、様々なかたちをとりながら直接間接に我われの前途を脅かし続けている昨今にあっては、共存共生の精神に立ち戻りながらも、その一方でいざというときに備え、自力存命の覚悟とその手段の模索だけはしておくべきなのでしょう。  
 自らの人生行路が厳しい状況下に置かれたとき、多くの人は今日一日をどう生きていくかということだけに執着するようになると述べましたが、必ずしもそれは悪いことばかりではありません。そうすることによって、それまでの生活の中ではあまり深く考えることのなかった社会の仕組みや人間相互の関係の重要な意義などを深く認識させられるようになるからです。端的に言えば人間存在の本質を顧みるようになるわけです。
人間というものは、独り苦境に立たされてみてはじめて、自分が如何に多くの他者に支えられて生きてきたのかを痛感するものです。社会の流通システムや政治経済機構の機能というものなどについて、何時になく実感もって臨めるのもそんなときにほかなりません。実利とはおよそ無縁な文学や芸術の世界にはまるで関心がないとなど嘯いていたはずの人々が、突然、その分野の存在意義に目覚めるのも、そんな場合が少なくないようです。突然に喰うや喰わずの事態に陥るなかでは、そんなことなど起こるはずもないと思う人も多いでしょう。しかし、その種の逆説的展開は過去実際に起こったことであり、これからもまた起こり得ることなのです。予想もしない事態の発生によりどん底の生活に追い込まれた人々が、真の意味での共存共生の重要性に目覚めるのも、多分、そんな非日常的な背景があってのことなのでしょう。
 一方、これはごく少数に限られるのでしょうが、生きるか死ぬかの極めて苛酷な人生行路の直中にあってさえも、遠くを見つめて歩み続けようとする人もいるようです。登山に喩えれば、峻嶮そのものの山岳路にありながらも、やがては到達するだろう山頂からの絶景に遠く思いを馳せながら、周囲の目など一切気にせずひたすら足跡を刻み続けるクライマーのような存在です。新たな道を切り開きながら人跡未踏のジャングルや極地を進む探検家などに喩えることもできるかもしれません。通常なら、現実をまるで知らない、自分勝手な夢に耽る愚かな理想主義者だなどとの批判も受けがちな人々ですが、想像を絶する非常事態の直中においては、意外なことに彼らもまたそれなりの社会的意義を果たしたりもするのです。その存在はけっして捨てたものではありません。
多くの人々が想定外の苦境に晒され、先の見えない厳しい日々を送っているときにも遠くを見つめる彼らの不思議な精神力は、意外なまでの力を発揮することがあります。ひどく混迷し纏まりのつかなくなった多くの人々のために、眼前の苦境を乗り切る方策を求めて知恵を絞り、平穏な世界が必ずや再来することを説きながら、当面進むべき道を提示してくれるのは、大抵そんな彼らなのです。現実生活からは遠い存在だと見做されていた彼らがそんな折に役立つとは驚きそのものなのですが、彼らのほうもまた、一連の苦境を通して自らの生き方が単なる自己満足で終わるだけものではないと思い知らされることになるのです。むろん、そんな体験をした彼らは、実利的な世界にはおよそ無縁だったはずの人生行路がいざというとき社会的意義を持つことを嬉しく思う一方で、少なからず自己閉鎖的であったそれまでの生き方を反省することにもなるでしょう。自立自存の意気込みのもとで過ごしてきたそれまでの人生が、実は目に見えないところで多くの他者によって支えられていたことを悟らされもするからなのです。
(若年層の政治意識高揚を喜ぶ)
 今般のコロナウイルス問題を契機に、大学生層をはじめとする若い世代の人々が少なからず政治に関心を抱くようになったのは大変望ましいことでしょう。60年代当時に学生だった私たち世代の者は、ほとんどが未熟なりにも政治問題には強い関心を抱いていたものです。しかし、日本経済が絶頂を極めたバブル期に突入し、さらにはそれが破綻して長期にわたる経済低迷期に入る一連の過程の中で、若い人々の関心は政治から離れていきました。そして、時の政権に対する批判などおよそ無意味だし、自分の一票で政治の流れなど変えられるわけがないという思いが定着するようになりました。政権与党の支持率が、若い世代になるほど高く高齢者層になるほど低くなり、また、大都市部のほうが地方よりも政権政党の支持率が高く、政権批判政党の支持率が低いという、それまでになかった逆転現象が起こったりしたのもそんな流れを通してのことでした。現政権が選挙権獲得年齢を18歳まで引き下げたのも、若い世代の自立性を評価すべきだという表向きの理由とは異なり、活字離れしてSNSのみに依存する能天気な若年層を取り込めば自らに有利に働くと読んだからだったのでしょう。若者たちも随分と舐められたものだと言うしかありません。
 しかしここにきて、コロナウイルス問題への対応の不備や検察庁法改定事案に対する現政権の恣意的な思惑が浮上したため、若者らが再び政治意識に目覚めはじめました。また、孤立気味だった隠れた識者や発言力のある著名人らが相互に強い連携を取り戻し、若者らにも多大な影響を与えつつ、真摯に政治に向き合うようにもなってきました。その意味では目下のウイルス騒動も、禍を福に転じる絶好の機会ではあるのかもしれません。

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