時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(7)(2015,05,15)

(考古学や歴史学は文系の学問という誤解)
「夢の光が照らす文化と歴史」講演会での中井泉東京理科大学教授の講演を引き継ぐかたちで壇上に立ったのは、この日の特別講演者、吉村作治・早稲田大学名誉教授だった。「科学の力で歴史の謎を解く」という演題のもと、飄々(ひょうひょう)とした姿で話し始めた吉村教授が真っ先に強調したのは、「考古学や歴史学は文系のみの学問ではない」ということだった。考古学・歴史学は文系の学問だという日本学術界特有の思考や見解に染まりきっている者などにとっては、中井教授と吉村教授の講演内容はかなり衝撃的だったことだろう。
――遺跡から出土した遺物や古代の人々が書き残した碑文・文献類など検証し、当時の事実を探り明かすのが目的の考古学や歴史学は、国際的な学術研究の場では昔から科学技術の力を基にして考察が進められてきた。あえて文系・理系に分けて考えるような場合、欧米では考古学などは理系分野に分類されているのが一般的なのだが、我が国においては文献学中心の歴史学が先行したため、後発の考古学はその下請け分野であるかのような誤解が生じ、不本意ながら文系視されるようになってしまった。実際の考古学というものは学問のゼネコンみたいな存在であり、理工学系の知識や技術をその基盤にしている。端的に言うと、考古学者とは科学知識を武器にして古代人の足跡やその奥に秘められた諸事実を黙々と追いかけ洗う刑事のようなものである。むろん、そうやって得た貴重な情報を明日の人類の生活に役立てるためになのであるが……――その時に吉村教授が講演冒頭部で述べた話の概要はそのようなものであった。 
かつてクフ王のピラミッド基底部から出土した「太陽の船」を目にした吉村教授は、その発見位置と対称をなす地点の土中深くに「第2の太陽の船」が眠っているのではないかと考えた。そこで当時の日本の科学者らの協力を得て特別に開発した小型電磁波探査レーダーを現地に持ち込み、狙った地点を精査して、未発掘の地下室らしいものが地中に存在していることを突き止めた。だが、考古学分野での日本の科学技術力に対するエジプト政府の信頼度は低く、容易には発掘許可がおりなかった。そのため、吉村教授は放射光X線分析の専門家の中井泉東京理科大教授らに協力を求め、エジプトの遺跡から出土した埋蔵品の顔料やガラス質の分析、それらの年代測定などを行いながら数々の実績を挙げるとともに、200体にも及ぶ各種ミイラマスクなどの検証や修復に尽力した。さらには、偏差重力計、電磁探査機、人工衛星撮影の画像解析などの物理探査法を駆使して遺跡調査に精魂を傾け、ダハシュール北遺跡などを含む4基の未盗掘墳墓の発見を成し遂げた。
そして、それら一連の実績を積み重ねる過程を通し日本の科学技術力に対するエジプト政府の信頼を勝ち得た吉村教授らの調査隊は、第2太陽の船が眠ると推定される地点の発掘をようやく許可された。一抹の不安もあったというその先導試掘は幸い見事に成功を収め、ファイバースコープ等による観察により、第2太陽の船のバラバラになった部材が多数発見確認された。そこに至るまでに、なんと20余年もの歳月を要したのだという。講演では、試掘時に撮影されたという貴重な現場写真や第2太陽の船の予想再現模型写真なども紹介されたが、吉村教授らの長年の苦労のほどが偲ばれ、なんとも感動的であった。その時の講演で、吉村名誉教授は、11年には本格的な発掘が行われ、4500年ぶりにその全貌が明らかになると語り、発掘された部材をもとに、精巧な第2太陽の船の復元作業も遂行されることになっていると、期待を込めてその後の展望を提示した。
(懇親会にみる両教授のお人柄)
講演終了後に開かれた特別懇親会では、かねてから懇意にしているSPring―8関係者のほか、中井泉教授や吉村名誉教授らともしばし親しく歓談した。とても穏やかで謙虚なお人柄の中井泉教授は、けっしてご自分の業績を誇ったりするようなことはなかったが、その自然な姿の奥には強い信念と自信のほどが漂い秘められているように思われてならなかった。その折に、中井教授には拙著1冊を進呈したのだが、東京への帰りの車中で読ませてもらうと喜んで受け取ってもらったのだった。
 吉村作治名誉教授とはその日が初対面だったが、会話はスムーズに進展した。正直に言うと、この講演会で出合うまでは、吉村教授の人物像について私は少なからず誤解と偏見を抱いていた。かつて同教授が様々なテレビのバライエティ番組などに次々と登場し、国内では知らない人がいないほどに有名になっている姿を熟知していたので、もしかしたら学術研究よりも出演料稼ぎのほうに重点を置いている人物なのではないかと感じたりもしていた。また、借財があるらしいという噂なども耳にしていた。ただ、たとえそうだとしても、自分自身を含め人間誰しも完全な意味では清廉潔白でなどありえないがゆえに、それもまた仕方のないことだろうと私なりに納得してもいた。
だが、この日の講演や懇親会での忌憚ない会話などを通して、私は、長年にわたって吉村教授がエジプト考古学研究に注ぎ傾けてきた底知れぬ情熱と真摯な献身の数々、さらにはそれらに伴う艱難辛苦の連続を知るところとなった。同教授はテレビ出演などで稼いだお金のすべてをエジプト考古学の研究に投入していたのである。一連のエジプト考古学研究に対しては日本政府などから常時多額な公的支援などが行われていたわけでもなかったから、時にはリスクを承知で借財する必要性もあったのだろう。後日、この日の講演要旨を私個人の思いを込めて纏めあげ、それを各講演者にお送りしたのだが、吉村教授からは、独特の筆跡で記された懇切丁寧な一通のお礼状が届きもした。
 その日の懇親会を終え、独りきりになった私は、煌々と輝く満月間近の月光に誘い導かれるまま、黒々と聳える興福寺五重塔の前に立った。折しも九輪の塔の頂きには青々と冴えわたる月影が差し掛かるところであった。学生時代から古都奈良に深く魅了されていたこの身は、壮大な歴史を秘めた奈良の地を過去幾度となく訪ね歩いてきたものだ。もう随分と以前のことになるが、そんな旅路の中にあって偶々目にした感動的な光景を、「冴えざえと五層の塔の頂きに棲むこの月を仲麻呂も見き」という拙歌に詠み込んだことがあった。興福寺の前に立つまで予期などまるでしていなかったのだが、静かに眼前に広がるこの夜の情景はその短歌を詠んだ折とまったく同じものであった。
駐車場に戻った私は、直ちに車のエンジンを始動すると一気に奈良盆地を南下し、月下に聳える標高1600mの大台ヶ原山をひたすら目指した。その地こそは、かつて、絶滅したニホンオオカミの最期の姿を遠く偲びながら、「友呼ばふ孤狼の悲魂弔ひて大台ヶ原に冬の月照る」という歌をかつて詠んだ想い出の場所なのであった。

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