時流遡航

《時流遡航256》日々諸事遊考 (16)(2021,06,15)

(自分の旅を創る~想い出深い人生の軌跡を刻むには――⑦)
(「大和古寺風物誌」の記述を辿る)
 未熟で世間知らずの学生だった遠い昔のことですが、いまだに忘れ難い旅についての想い出があります。高校時代の角川書店版現代国語の教科書に載っていた「絶望について」という一文に目を通した私は、その文章の流麗な文体と深く心に響く叙述内容とにたちまち魅せられてしまったのでした。肉親の総てを失って天蓋孤独の状況へと陥り、何かと思い悩むことの多かった当時の心境を見事に掬い取り、それを癒してくれたばかりか、将来の道行きへの心構えをも提示してくれたその名文との出遇いに、運命的なものを感じもしたものです。しかも、亀井勝一郎というその文章の筆者名を確認した瞬間、「あれ、もしかしたら……」という思いが胸中に湧き上がってきたのでした。
 その3ヶ月ほど前のこと、私は、鹿児島市内のとある神社の縁日の夜店で、たまたま真新しい角川版の文庫本一冊を買い求めました。買った理由ときたら、ただ単に、真新しさにもかかわらずその本が10円という破格の安値だったからというだけのことでした。そんなわけですから、その本を持ち帰ったあと、ちょっとページをめくっただけでまともに目を通すこともせず、他の本と一緒に机の片隅に積み置いたままにしてあったのです。俗に言う「積ん読」をしていたというわけなのです。ところが、高名な文筆家であるらしい教科書収録のその一文の著者名をどこかで目にしたような気がしたものですから、あらためて記憶を辿り直すうちに、過日縁日の夜店で入手した文庫本に思い至ったのでした。
大急ぎで問題の著作を取り出し確認してみると、「愛の無常について」というその本のタイトルの下には、間違いなく亀井勝一郎という名前が書き記されていたのです。すぐに同書を読み始めた私が瞬時にしてその虜になったことは言うまでもありません。しかも私が教科書で目にした人間の絶望に関する一文は、その本の巻頭部にある「人間生成」という主題の中の「考へることから死ぬことまで」という項目部の中核を成している文章だということが判明もしたのでした。程なく赤線と書き込みだらけになってしまったその本は、自らの人生におけるバイブル的存在として、今もなお私の本棚の一角に大切保管されています。それはまさに人生を左右する「1冊の本との廻り合い」でもありました。
 上京し大学生となった私は、貧乏な身を顧みず、講談社刊行の亀井勝一郎選集全8巻を順々に買い求め、それらを徹底的に読み込んだものでした。その第4巻「私の美術遍歴」の中には「大和古寺風物誌」という奈良一帯の寺院の探訪記が収められていたのですが、またもやその一連の叙述に深く傾倒することになったのです。そして、その探訪記を詳細に読み込むうちに、何時かその記述に忠実に添うかたちで、まだ訪ねたことのない奈良の地を廻ってみたいと思うようになったのです。ただ、様々なアルバイトに明け暮れる苦学生の身とあっては、そんな旅をすぐさま実現できようはずもなく、以後しばらくの間は、ひたすら旅立ちの機会の到来を待ち望むしかありませんでした。それから一年半ほど経ったある秋の日のこと、倹約に倹約を重ねて少しずつ貯め込んだなけなしの旅費を手にして、私は憧れの地である、古都奈良へと旅立つことになったのです。
 詳細な歴史的考察をも含めた大和古寺風物誌は、聖徳太子ゆかりの斑鳩宮址一帯の記述から始まります。当然のことながら、私はその文章の一字一句を追うかたちで斑鳩の地を目指し、秘仏救世観音像の祀られている夢殿へと歩を進めたのでした。残念ながら、その初参詣の折には夢殿は閉廟中だったため、聖徳太子の生き写しだとの一説さえもある救世観音のお姿を拝することは叶いませんでした。ただ、亀井勝一郎の名文に加えて同観音像を詠んだある一首の短歌の存在を知ることができたお蔭もあって、心の奥でその秘仏の姿に篤い想いを馳せることはできたのです。そのあとも、法隆寺、中宮寺、法輪寺、さらには薬師寺、唐招提寺、東大寺、新薬師寺と、亀井勝一郎がその記述に込めた思索の糸を順次手繰り寄せるようにして一連の古刹を次々に巡り歩き、生涯忘れ難いものとしてその想い出は胸中深くに残り続けることになりました。各寺院を訪ねるごとに、携行した著作中の当該寺院の記述部に拝観記念印を押してもらうようにもしたわけで、同書のほうも他の選集本7巻と一緒に今もなお書架中に大切に保管しております。
 その際訪ねたどの寺院においてもそれぞれに感慨深いものを覚えはしたのですが、その折に目にした中宮寺の如意輪観音像の佇まいは、迷妄多き当時の身にはとりわけ印象的なものでした。京都太秦広隆寺の弥勒菩薩像と並び、静かな微笑を湛えた半跏思惟の美仏として知られる国宝の同如意輪観音像は、その気になればそっと触れ撫でさえも可能な至近距離から拝観することもできたのです。実際、その観音像の肩の辺りには、長きにわたる民衆との身近な対面を物語る手擦れの跡のようなものが残されてもいました。「慈眼」と呼ばれるその瞳を間近に拝することによって、どんなにか心が癒されたことでしょう。その数年前のこと、広隆寺の弥勒菩薩の美しさに心酔するあまり、ある京都大学生が同菩薩の指を折り取るという事件が発生したのですが、それというのも当時はまだ国宝とされる仏像などとも直に接することができたからなのでした。現在ではその如意輪観音像は高所に設置された厳重な総ガラス張りの空調付き空間内に収められ、文字通り遠くから仰ぎ見るかたちでしか拝観できなくなってしまいましたのですけれども……。
(會津八一の歌を介し新境地へ)
 この奈良の初旅においては、今ひとつの重要な出遇いがありました。救世観音を詠んだある短歌の存在を知ったと述べましたが、それは「天地(あめつち)に我独り居て立つ如きこの寂しさを君は微笑む」という歌でした。歌中の「君」というのはもちろん救世観音のことを指しているのですが、正直なところ私はこの一首を前にして衝撃にも近い感銘を覚え、瞬時にして短歌というものの重要性に目覚めることになったのです。そして、その歌を詠んだのが會津八一という偉大な歌人であり、大和周辺にはその人物の足跡を刻んだ数々の歌碑が残されていると知った私は、東京に戻ると憑かれたようにその著作を読み漁りました。坪内逍遥の愛弟子でもあり、秋艸道人とも号した會津八一はその時既に他界していたのですが、歌集「南京新唱」や「自註鹿鳴集」、随想集の「渾齋随筆」などを読んだときの感動は未だに忘れることができません。ずっとのちのことになりますが、それらの歌集や随想集を携えながら幾度となく大和の地を踏み、會津八一の歌心の一端にでも触れることができればと思いながら、一帯を徘徊もしたものです。またそれは自らも予想さえしなかった展開へと繋がりもしました。我流そのものではありますが、何時しか自身も歌読みの真似事をするようになり、何十年かをかけて人知れず詠みためた愚歌の数々とその詠歌の背景とを纏め、旅歌随想集「還りなき旅路にて」として刊行する流れにもなったのです。

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