(渡辺淳さんとの交流を回想する――②)
見るからに古びた玄関の引き戸が、「そろそろお役目御免にしてくださいよ」とでも哀願するかのような音をたてて開いた。誰でもご自由にどうぞと言わんばかりに、いっさい施錠などしてないところが如何にもこの人らしかった。私たちが中に入ろうとすると、すぐにその気配を察して二匹の猫が駆け寄ってきた。さっそく化け猫様のお出迎えかと思いきや、奥から現れた二匹はなんとも人なつこそうな顔をしているではないか。一匹は体の大きなヒマラヤン種の猫、もう一匹は短毛雑種の日本猫だった。「お銀ちゃん!」というご主人様の呼びかけにすぐ反応したところをみると、それがヒマヤランのほうの名まえらしかった。続いて渡辺さんは雑種の日本猫のほうに向かって「コラコラ……」と声をかけた。私は、一瞬、その猫が何か悪さでもしかけたのかと思ったが、なんと「コラコラ」とはその猫の名前だったのだ。まだ子猫だったころ頃、何時も悪戯ばかりして家中を引っ掻き回わしていたらしい。その度ごとに渡辺さんが「コラコラ!」と宥め叱っていたのだったが、いつしかそれが名前として定着することになったのだという。
渡辺さんの創造力の秘密の潜むアトリエ・山椒庵は、一言で述べるなら、この上なく立派なボロ家であった。だが、それはまたこの世で最も心温かいボロ家でもあった。玄関から奥に通じる狭い廊下の床はきしみ、部屋を仕切る戸のほとんどは、開閉がままならぬほどにくたびれたり歪んだりしていた。黒く煤けた天井の裏には物の怪が棲んでいてもおかしくはない感じがしたし、部屋のあちこちには雨漏りの痕跡らしいものまでが見て取れた。山椒庵などというよりは「惨笑庵」とでも呼んだほうがよさそうな風情があって、この仙人風情の庵主は、この超芸術的な空間を心の奥で笑い、楽しみ、そして愛し、それを創造の源泉にしている節があった。また、多分その所為なのだろう、この不思議な空間には、人の心を自然に裸にさせてくれる本物の温かさと安らぎとが満ち溢れているようだった。
アトリエというあちら風の言葉には洒落た響きが感じられるが、それは、もともと「工房」、すなわち、作業場のことを意味している。作業場である以上、そこには得体の知れない雰囲気やある種の臭いが漂っているのが普通である。喩えるなら、アトリエとは作家や職人が裸になって己の執念や錯綜する想いを吐露し、それらが作品に昇華すべく人知れず格闘するリングなのである。だから、柱の一本いっぽん、床板の一枚いちまいには長年の汗と脂が染み込んでいるはずなのだ。そして、おそらくは、本物の創作と呼ぶに値するようなものはそういったところからしか生まれてこない。明るく綺麗で見るからに快適そうなアトリエから生まれるのは、多くの場合、お気楽なしろものか紛い物ばかりである。
絵筆や絵の具をはじめとする各種の画具、画材、描きかけの絵のキャンバス、さらには、描き上がった作品群などが所狭しと散乱する部屋の中には、年期のはいったストーブが一基据えられていた。勧められるままにそのストーブ脇のソファに腰をおろすと、すぐに猫どもが膝の上に乗っかってきた。変な奴だけど、まあ、ちょっと遊んでやるか、とでも言いたげなその表情であった。赤々と火のともったストーブのおかげで部屋の冷気が徐々に緩むと、それに後押しされたかのように私たちは再び話に夢中になった。
(話はひたすら弾みに弾んで)
この部屋にはいった瞬間、私の目に真っ先に飛び込んできたのは、若い裸体の男が両膝を立てて座り込み、何かに苦悶するかのごとく頭を掻きむしっている襖半分ほどの大きさの絵であった。水彩とクレパスで描かれた粗いタッチの絵だったが、内から激しく突き上げる遣り場のない想いを御しかねて無言の呻きを発する若者の姿には、そら恐ろしいほどの迫力があった。それが若き日の渡辺さんの心理的な自画像に違いないと直感した私は、単刀直入にその絵の背景を尋ねてみた。
その絵は、渡辺さんが貧乏のどん底にあった十八歳の頃に描かれたものだのことであった。孤独で、しかも激しい肉体労働を伴う炭焼きをやりながら、重い病の父君を含む家族の生計を支えるのは並の苦労ではなかったらしい。炭焼き作業に不向きな冬場は土木工事に出て生活費を稼ぐ日々を送っておられたのだそうだが、そんな折、仕事先からセメント袋を貰い受けて帰り、それをほぐし広げた紙に描いたのが、眼前の絵だというわけだった。
「ほったらかしとったら、知らんうちにネズミが端っこを齧ってもうてのう……ただ、こんな絵は、いま描け言われても、もう、よう描けはしまへんわ」、そうおっしゃる渡辺さんの顔は、心なしかはにかんで見えた。
どういう訳でそんな季節はずれの話題に至ったのかはもう忘れてしまったが、そのあと私たちはホタルとホタルブクロの話をした。「あの淡紫のホタルブクロの花にホタルを一、二匹入れて光らせてみると、とっても綺麗ですよね」とこちらが体験談を切り出すと、「なんや……あんたもおんなじことをやっていたんかいな!」と笑い声をあげながら、渡辺さんは一枚の描きかけの油絵を取り出し、私に見せてくださった。
「あんまり美しゅうて、あれはどうにもうまく絵にしきれんのですわ」という、溜め息まじりの呟きがいまも耳に残っている。ちなみに述べておくと、それは、のちに、「あおい想いを(蛍)」いう名の作品となって完成をみたのだった。ホタルとホタルブクロに対するお互いの想いが同じと知って、私たちはますます意気投合し、話は弾むいっぽうとなった。信州のホタルブクロは淡紫だが、若狭のホタルブクロは青みがかった白をしているという話も出たように記憶している。
そうこうするうちに、山椒庵からそう遠くないところにある息子さんのお宅に、お孫さんたちと一緒に住んでおられるという渡辺さんの奥様が、たまたま松茸を手に入れ松茸御飯をつくったからと言いながら、二人分の食事を運んできてくださった。松茸御飯などというそら恐ろしいものなどそれまで一度も目にしたことはなかったし、先々も目にすることなどないだろうと思った私は、自分のあまりの運のよさに面喰うとともに、だんだんと申し訳なくもなってきた。奥様にすれば、こんな図々しい飛び入り客があろうとは考えてもおられなかったはずで、詰まるところ、どなたかの分の松茸御飯を行きずりのこの身がちゃっかり戴いてしまうことになったのは明らかだったからである。
渡辺さんの奥様は、実に寡黙な、それでいてとても心の寛い賢夫人で、そのときもよけいな話などいっさいなさらず、てきぱきと蔭で必要な手筈を整えてくださると、すぐにその場を辞していかれた。渡辺さんのほうは、夜なべ仕事をなさることもあって、通常は独りでこの山椒庵に寝泊まりなさっているらしかった。