時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行録――その概観考察(3)(2018,02,01)

(哲学書の翻訳作業に伴う諸問題について )
 以前の西洋哲学書の和訳本には問題があったと述べましたが、もちろん、日本に西洋哲学を紹介した明治や大正期の先人らの苦労を思うと、一概にその仕事を批判するわけにもいきません。様々な時代背景や学術界の状況を考えると、難解な訳語や数々の誤訳、さらには意味不明な文言を随所に含む翻訳書が一時的に世に送り出されたことはやむを得ないことではあったのでしょう。私のささやかな経験からしましても、翻訳とはひとつの創作作業にほかならないのですから、完全な翻訳などというものはもともと存在するはずがありません。高度な内容をもつ思想書や、優れた表現の文学作品などは直訳するとまるで意味が通じなくなってしまうことが多々ありますから、原書とは異なる表現や原書にはない文章が訳書のほうに含まれるのは致し方ないことでしょう。
 翻訳の世界を皮肉たっぷりに述べ表した名言に、「翻訳と女性は裏切るほどに美しい」というものがあります。カール・ブッセの名を日本国内において一躍有名にした、上田敏による名訳詩「山のあなた」などはその典型的な事例かもしれません。ただ、ここでいう「裏切る」という言葉の奥には、暗黙の前提が秘め隠されているはずなのです。多分、それは、「十分にその意味が通じる自然な表現体を用いてあり、原著の意図するところを七割方は伝えていること、そして、できるならば原作品の価値や存在意義をより一層引き立てたものになっていること」とでも言ったようなものになるのかもしれません。
もちろん、翻訳書とはその原書を直接読むのが難しい人々のためにあるものですから、訳文が難解なものになることだけは極力避けなければならないでしょう。その意味では、どうしても難しくなりがちな哲学書のような類の訳書の場合には、一定期間ごとの改訳や補足作業、そしてもしも可能ならば、異なる専門家による新たな翻訳書の刊行も必要になってくるはずです。それゆえに、原書の真髄に直接迫りたいと思う人は、たとえ遠回りでも自らその記述言語を学び、原語でもともとの著作を読んでもらうしかありません。学生時代のことですが、私用のため訪ねた大学の教官室で、その世界では著名な先生方が交わしている話を偶然耳にしたことがありました。その場では、「難しくてよく意味の分からない洋書の原文などは取り敢えず直訳して出版すればいいんですよ。まあ、それも当座を凌ぐ便法なんですから」などといった会話が交わされていたのです。たいした語学力もなく未熟な学生だった私は、そんなものかと妙に納得させられる思いでしたが、今ではそのような見解や対応の仕方が必ずしも適切なものではないと考えるようになってはいます。
その性質上、読者がかぎられがちな哲学書のようなものは、新版や改訂版の刊行が難しく、さらには学術の専門書とされるゆえに、先鞭をつけた翻訳者の仕事に異なる見解を差し挟むことは遠慮されがちなものです。そのため、いったん訳語が定着してしまうと、その訳語が少しおかしいと感じるようなことがあったとしても、後世の者がそれを指摘し修正や変更を行ったりするのは決して容易ではありません。哲学書を必要以上に難解なものに感じさせたり、時流に伴う語彙の変遷のゆえに様々な誤解を生みもたらしたりしている背景には、そのような事情もあったりするのです。この際ですから、ちょっとした実体験談を紹介しておくことにしましょう。
 大哲学者カントの「純粋理性批判」、「実践理性批判」という名著の翻訳を読解力不足な学生時代に読もうとして一時挫折したという話は先に述べておいたとおりです。そして、これもまたその折のことなのですが、そのタイトルを文字通りに受け取った私は、その内容が、「純粋理性」や「実践理性」なるものを「批判」したもの、すなわち、それらの意義を否定的に論じたものなのだと思い込んでしまったのです。そもそも「批判」という日本語は、現代にあっては何かしらの対象を否定的に捉え訴える場合に用いられることがほとんどだからです。ただ、昔は、この「批判」という言葉は「物事の真偽や善悪、適否を批評し判定する」ということをも意味していたようですから、原書のタイトル中の「Kritik」という記述を、初めてカントの翻訳携わった人物がそのように訳したこと自体は大きな間違いではなかったと言えるのでしょう。
実際、のちになってから、あらためてカントの著作をじっくりと読み込んでみましたところ、純粋理性や実践理性の意義を論じ深めた叙述はあっても、その論旨のどこにもそれらの意義を否定したところは見当たりませんでした。「Kritik」というドイツ語が、「論じ評する」という意味で使われていることからしても、現代の読者には、「純粋理性批判」ではなく、「純粋理性論考」とか「純粋理性考究」とかいった感じのタイトルにしたほうが通りがよいかもしれません。しかし、この種の古典的学術書のタイトルを今更改めることは容易なことではありません。そうだとすれば、これから哲学を学ぼうとする若い人たちには、せめて、「批判」という言葉が否定的な意味で用いられているのではないくらいのことは伝えておく必要があるでしょう。名著とされる哲学書のタイトルだけでもこのような問題があるのですから、その内容の詳細についてとなるといろいろな難題が次々に持ち上がってくるのは当然のことなのです。
(理解不可能な翻訳文に出合う)
 そんなわけですから、西洋哲学の翻訳書に理解しづらいところや原書の論旨と幾分異なる箇所があったりするのは仕方のないことかもしれません。しかし、日本語の文章としてもまるで意味の通じないところが多々あるような著作となると話は別になってきます。1980年11月のこと、私は刊行されたばかりのホワイトヘッド著作集の第13巻の翻訳書「思考の諸様態」を購入して読み始めました。実を言うと、「Modes of Thought」という当該作品の原書そのものは10年以上も前に入手しており、既に私なりに一応は読み終えていました。その翻訳書に目を通し始めたのは、記述用語や使用概念の厳格な定義をしたうえで深い考察と展望がなされているホワイトヘッドならではの叙述内容が、日本語ではどのように表記されているのかに関心があったからでした。
 ところが、「思考の諸様態」というその翻訳書冒頭部の「重要性の概念」について述べた25ページほどの第一講を読み終えかけたところで頭がくらくらしてきてしまったのです。曲がりなりにもその原書を通読し終え、学生時代などとは違って日本語の表現力や理解力もそれなりには向上した時点でのことですから、まずもってそれは通常では考えられないような事態なのでした。信じられないことなのですが、その訳文のあちこちには誰にとっても意味不明としか思われない日本語が何の憚りもなく綴り込まれていたのです。

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