時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (13)(2020,04,01)

(新型コロナウイルス流行の背景を想う )
 強力な感染力を持つ新型コロナウイルスが流行し、世界中で警戒感が高まっている昨今ですが、そんな折であればこそ、一筋縄ではいかない生命体というものの厄介な一面を痛感させられもしています。よほどの変人でもないかぎり、人は誰しも悪性のウイルスに感染し苦しんだ挙句に絶命したいとなどとは思ってもおりません。人間の生命に重大な危機をもたらすウイルス類というものは、通常、百害あって一利無しの迷惑千万な存在だと見做されています。しかし、ここで少しばかり視点を変えて、ウイルスの立場から人類その他の生命体と、それらの跋扈(ばっこ)するこの世界を眺めやってみることにしましょう。
 自立性のないウイルスというものは細菌類を含む他の生命体の細胞内に寄生し、そこのタンパク質などを分解再構成することによって自己複製を果たしています。ただ、他の生命体に寄生して増殖するしかない分、そのメカニズムは特殊であり、感染力や拡散力は尋常なものではありません。それもまた自然の摂理と言うならば、そこには、人知を超越した大宇宙の展開と維持に欠かせない特異なシステムが隠されているのかもしれません。
その一方、そんなウイルスに寄生された生命体の側は、不埒な侵入者の増殖を極力抑え込もうとして免疫細胞を機能させ、時には過剰になるくらいに激しい攻撃態勢を整えます。その結果、身体が異常なまでに発熱したり、それまで正常に機能していた体内の諸臓器の細胞群が思わぬ損傷を受けたりし、重度の体調不良に陥り、遂には死に至ってしまうことも少なくありません。免疫細胞による防御機能が逆に災いしてしまうというわけなのです。寄生された側にすればたまったものではありませんが、ウイルスのほうには悪意などまったくなく、自然界の推移と変転を介し自らにもたらされた機能を最大限に活用し、自己増殖を図ろうとしているだけのことなのでしょう。それを抑制妨害しようとする免疫細胞群に対抗し自己生存と自己増殖を図るため、より一層の感染力と繁殖力を高めつつ、ウイルスが刻々とその機能を変容させていくこともまた自然の摂理にほかなりません。通常、個々のウイルスの生存期間はごく短いものであるだけに、そんな状況を補うべく、それらが異常なまでの感染力と拡散力を持つことも必然の流れではあるのでしょう。
 さらにまた、一口にウイルスとは言いますが、ある生命体には有害であっても他の生命体にとっては無害であるばかりか、むしろ有益であったりするようなウイルスも存在しています。もちろん、なかには人類の生存にとって有益な働きをするウイルスも存在していることでしょう。ただ、目下流行中の新型コロナウイルスの発生がそうであるように、人類の認識能力を遥かに超えた大自然のメカニズムというものにはある意味で冷酷な一面がそなわっており、それは人間にとって必ずしも有益無害なものばかりだとはかぎりません。そもそも、有機的物質としての側面と原初的生命体としての生物的側面の双方を具え持つウイルス類は、現在地球上に生息するすべての生命体の起源だったと考えられてもいるようですが、逆に、先行する生命体がウイルスを生み出すのだとする説もあるようです。また、その真偽はともかくとして、宇宙から飛来し、地球上に落下した彗星などにある種のウイルスが含まれており、それが地球上の生命の起源になったとするパンスペルミア学説なども存在したりもしています。
(互いに殺し合う生命体の本質)
 近年、地底深くの岩盤層などで岩石の成分を摂取しながら棲息している原初生命体らしきものが発見されているようですが、通常の生命体に共通する宿命的な特質は、無機的物質や生命体以前の有機的物質のみを摂取するだけでは生きていけないことでしょう。人類をはじめとする諸生物が、岩石類や土壌類、硫黄、石炭などのようなものを直接食べて生存できればよいのですが、残念ながらそうはいきません。結局のところは、どうしても他の生命体を食することによってしか自らの生命を維持することができないのです。その結果として、それぞれの生命体には他者に対する攻撃本能や自己防衛本能が芽生え、それらの資質は代々その子孫の内面深くに遺し伝えられていくことになったわけです。どんなに穏やかそうに見える生命体であったとしても、また見るからに平和な共存関係にある異種生命体同士であったとしても、一旦自らの生死が懸った段階に至ってしまうと、他者を殺傷してでも自分だけは生き延びることを少しも厭わなくなってしまいます。しかも、周知のように高度な知性を持つ生命体であるほどに、その残虐性は強いものになりがちです。
 多くの人々が新型コロナウイルスの拡散に戦慄を覚えることは必然の成り行きなのですが、ウイルスやそれに対抗しようとする免疫細胞のほうは、自らの活動がその宿主や保有主である人間の殺傷にまで繋がろうとは考えなどおりません。結果的に人間が息絶えてしまえば、それ以上はウイルスも免疫細胞も生存できなくなってしまうわけですから、そのメカニズムは皮肉以外の何物でもないでしょう。
他の生物を殺戮することによって自己の生存を図るのは、この世の全生物の背負う宿命にほかならないのですが、どうしてもそのことは忘れられてしまいがちです。はじめから殺戮行為を前提とした狩猟や漁業ばかりでなく、ある段階まではもっともらしく共存を装い、ある日突然態度を豹変させて相手の命を奪い単なる食料としてしまう牧畜や養殖なども詰まるところは人間の背負う業そのものなのですが、日常生活の中でその行為に悼みを覚えることはまずありません。菜食主義には人間のそんな宿命を自覚するなかで生まれたという一面があるのでしょうが、それとても植物という立派な生命体の命を絶つ行為のうえに成り立っているわけですから、本質的には肉食主義と何ら変わりはありません。
 ある知人が、「人間というものは、子どもの頃に気の向くまま何十匹・何百匹もの昆虫や魚、小動物などを殺した経験がなければ、真の意味での命の尊さを知る大人になることはできない」という言葉を吐いたことがあります。老いてなお不束なままのこの身ですが、たまたまそんな一言を耳にして、数々の虫類や小魚などの命を絶ちながら育った自らの幼少期の生活を想い起こし、確かにその言葉には一理あると納得させられもしたものでした。俗にいう仏心なるものは、多分そんな体験あってこそ生まれてくるものなのでしょう。「善人でさえも救われる。まして悪人が救われないはずがない」という趣旨の言葉を残した親鸞の思想にもどこか通じるところがあるのかもしれません。
 性悪(しょうわる)と言えば、昨今政界で頻繁に発生し、国内に拡散している「虚言コロコロウイルス」は、新型コロナウイルスよりも一層手が悪いかもしれません。このウイルスに対抗する「理性」とか「知性」とか称される免疫細胞を持ち具えない当今の行政者らがことごとくそれに感染し、庶民にまでその猛威を広げつつある事態にこの国はどう対処すべきなのでしょう。

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