時流遡航

《時流遡航239》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (25)(2020,10,01)

(主観と客観という対照的概念の背景を考える )
 哲学の本道を探究する真剣な試みであっても、あるいはまた、拙稿のごとくにその世界の脇道を遊び半分で彷徨う無責任な思索行為であっても、「主観」と「客観」という人間思考につきものの問題を避けて通るわけにはいきません。しかしながら、いざ主観的思考と客観的思考なるものの区別を自明のものにしてみようとすると、実のところ話はそう容易ではなくなってきてしまうのです。その識別を実践してみようと一歩踏み込んでみた途端に、両概念の定義、なかでも「客観」という概念の定義が何とも曖昧で心もとないものであるという事実に気づかされることになるからです。通常、我われは無意識のうちにそれら二つの概念を対照的なものとして受け止め、何となく分かったような気分になっているものですが、その判断には認識論上の厄介な問題が紛れ込んでもいるのです。折角ですから、この際、哲学の脇道遊行の旅ならではの柔軟な視点に立ちながら、この問題の本質を少しばかり深く考えてみることにしてみましょう。
 まずは、誰にとってもわかりやすい「主観」という概念のほうから検証を進めることにしてみます。我われ人類は誰しもが五感とそれらを統合的に司る精神的機能を有しており、それらの機能を通じて外界、すなわち「吾」なる存在の外に広がる多様かつ無限な世界の認識を実践しようとします。そしてその際に生じる諸々の認識像こそが本来的な意味での「主観」の構成要素にほかなりません。ある特定の人物が、他の人々のそれらとは大きく異なる特別な主張したりするようなとき、「それは主観的な意見だ」などと表現したりすることがありますが、その言葉の中の「主観」という言い回しは、本質的な意味での主観という概念のごく一端を述べ表しているに過ぎません。
本質的な見地からしますと、主観的な認識像というものは人それぞれにまるで異なっている可能性さえあるのです。例えば一枚の葉っぱの色彩ひとつをとってみても、百人百様の認識像が存在すると考えられるのですが、だからと言って、ある人物の認識内容を他者の認識内容と比較する術はありません。同じ葉っぱにに対する「緑」という色彩の認識内容ひとつをとっても、人それぞれに微妙に異なる「緑」の色彩像が存在する可能性さえあるわけですが、残念ながらそれらの認識様態を厳密に比較検証する方法は存在していないのです。一部に色覚異常と称される症状をもつ人々がありますが、そのような場合でさえも、それらの人々がどのような色彩感覚を有しているのかを他者が実際に体感することは不可能なのですから、人それぞれに微妙に異なるかもしれない「緑」の感覚の相違を把握することとなると、それはもう絶望的と言うしかありません。エスキモー民族などは「白」という色彩を何通りにも識別しながら生活しているとのことですが、その事実は同じ人類でも色彩感覚が相当に異なっていることをよく物語ってもいるのです。
人類の範囲に対象を絞ってみてもこの有様なのですから、地球上の諸々の生命体にまで範囲を広げると、話はますます厄介なことになってきます。個々の生命体というものは原初的なものであれ、高度に進化を遂げたものであれ、いずれもが何らかのかたちで外界を認識しながら生存し続けています。換言すれば、それぞれの生命体はそれなりの外界認識様態、すなわち主観に支えられながら生きていることになるのです。端的に述べれば、この自然界には多種多様な無数の「主観」が存在していることになるのでしょう。「主観という高度な認識様態を有するのは、心を持つ人間ならではのことなのだ」などという発想は人間の思い上がり以上の何物でもありません。
たとえば一羽のカラスがいたとしてみましょう。そのカラスが視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に基づいて認識する自然界の様相は、色彩面ひとつをとっても人間のそれとは大きく異なっている筈です。カラスにとっては認識容易でも人間にとっては認識困難な、あるいはまたその逆に、人間には容易に認識できるとしてもカラスには認識が困難な光の周波帯などが当然ながら存在していると思われます。もしそうだとすれば、人間が目にする光景とカラスが目にする光景とは本質的に違っていると考えるほうが自然でしょう。そして、それもまた、それぞれの主観の相違のなせる業にほかなりません。要するに、全ての生命体にとって個々の主観は必須のものであり、それらの多様な主観があるからこそ、それぞれが生命体でもあり得るというわけなのです。人間のもつ主観は唯一無二の絶対的なものなどではなく、この自然界に存在する数々の主観のひとつに過ぎません。
(大宇宙での主観の意義を考察)
 些か話が大袈裟になりますが、この大宇宙の何処かには我われ地球の生命体とは別種の知的生命体が存在しているに相違ありません。そして、それらは、地球上のものとは異なる認識メカニズムや認識様態を有し、その世界の時間や距離の測定基準をはじめとするあらゆる尺度基準は、我々には想像もつかないような異次元のものであると考えたとしても何ら不思議ではないでしょう。
現代人の我われは、「宇宙の果ては138億光年彼方であるらしい」などという表現を無条件で受け入れ、「光年」という測定単位が全宇宙で共通の認識尺度であるかのように振舞っているのですが、そもそも「年」や「メートル」といった時開・距離の単位自体が地球人にしか通用しない発想に過ぎません。遠い将来、「未知との遭遇」という映画の場面に象徴されるような異星人との出遭いが生じたりし、意志の疎通を図ろうとしてみても、「光年」などという単位は一切通用しないことでしょう。さらにまた、我われ地球人が直観的に認識できるのは3次元空間までですが、この大宇宙にはより高次元の空間を直観的に把握できる知的生命体さえもが存在しているかもしれません。そもそも「次元」という概念自体が我われ人類ならではの主観の産物だと考えられもするのです。
 そこまで想像力を逞しくしてみると、個々の生命体にとって主観というものが重要ではあるものの、その認識像にはおのずから限界が存在していることが明らかになってきます。もちろん、この大宇宙がどんなに華麗かつ壮大なドラマを秘めもっているとしても、その荘厳さを認識する主体、すなわち主観をもつ生命体が存在しなければそれらは単なる「無」へと帰してしまうことでしょう。それゆえ、喩え主観のもたらす認識像には限界が伴い、そのためそれらを通して形成されるその宇宙観が普遍性を欠くものになったとしても、主観を生み出す生命体の一環たる人類の、さらには地上の諸生命体の存在には掛け替えのない意義があるのです。ただ、「主観」のもたらす認識像が個々の生命体によって異なるとすると、それらの間をどのように調整し、より普遍的で有意な認識像を如何にして構築するかという思索、すなわち「客観」なる概念の問題が浮上してくるわけなのです。

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