時流遡航

《時流遡航235》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ(21)(2020,08,01)

(不格好なナスやキュウリに己の姿を重ね見る)
 子どもの頃に体験した離島での自給自足生活を顧みるにつけても、何かと考え込まされることが少なくないのですが、裏を返せば、それはまた己が老い果てたということの確たる証にほかならないのでしょう。評論家の米沢慧氏がよく用いる「往きの命と還りの命」という浄土真宗の祖・親鸞由来の概念に鑑みるなら、「還りの命」、すなわち「無」へと戻る道程の終着点近くをば戯言を呟きながらふらふらと彷徨っているのが今の自分だというわけなのです。人生の絶頂期に向かって「往きの命」の道を突き進む現代の若い世代の人々には、そんな老人の繰り言など聞くに堪えないものにも思われるかもしれませんが、それならそれで無視するなり耳を塞ぐなりしてもらっても一向に構いはしません。
 昔、我が家の裏の畑でとれたナスやキュウリは、堆肥などの栄養分を適度に吸い込み、明るく自然な南国の陽光を十分に浴び、さらには吹き抜ける折々の風に身を任せながら育ったので、それぞれに曲がったり歪んだりと、その形状が一定していないのは当然のことでした。でも、その味は悪くなく栄養分も豊富だったので、日々の生活の支えとしてはそれで事足りていたのです。ところが何時の頃からか、曲がったり歪んだりしたナスやキュウリは世の流通過程において不良品として除去され、ほぼ真っ直ぐで大きさと形の整ったものだけが市場に出回るようになりました。そのため、都会育ちの人などは、自然溢れる環境の下で個性豊かに育ったからこそ不格好なナスやキュウリを不良品だと思い込むようになり、やがてそれらを敬遠したり蔑視したりするようになっていきました。本当は健全な農産物であるにも拘らず、そんな悲しい扱いをされるようになってしまったのです。
流通業者や市場関係者にしてみれば、ほぼ真っ直ぐに近い形の揃ったナスやキュウリのほうが箱詰めも容易で見栄えもするため、彼らは生産者にそのような産品を要求するようになっていき、生産者の側もそれに応じざるを得なくなったのがその原因でした。当然の流れとして、生産者の多くは、直射日光を避け適度な温度や湿度管理が可能で、直接には風雨や害虫類の影響を受けることもない一定の成育条件を維持でき、しかも生産効率の高いハウス栽培を導入するようになりました。そして、その必然の結果として、生育条件の安定したハウス栽培でも折々生じる不格好なナスやキュウリは成長段階で不良品として除去されるようになっていきました。また、そんな状況が続くうちに、生産者を含む国民のほとんどが、一昔前までは本来の資質としてそれらが具え持っていたはずの形状不一定なナスやキュウリを、味やその栄養分に関係なく不良品として排除するようになったのです。
(歪んだナスやキュウリの意義)
日本の片隅において時代遅れの環境下で育った私たちのような高齢者を農産品に喩えてみると、現代の流通市場では到底通用しなくなったばかりか、その姿さえも滅多に見かけられなくなった「不格好に曲がり歪んだ古いナスやキュウリ」ということになるのでしょう。ましてや「還りの命」の終末期に差し掛かかっている寄る辺のない身であることを思えば、その姿は曲がったり歪んだりしているだけでなく、形が崩れ腐りかかったナスやキュウリにも相当しているのかもしれません。しかし、新型コロナウイルス汚染のような不慮の自然災害に襲われ、理想的な存在にも見えた現代社会が混乱に陥りつつある昨今なら、古ナスビや古キュウリの吐く戯言にも多少の理くらいは見出してもらえることでしょう。
最新の農業機器類や室温・湿度・空気成分調整可能な栽培用ハウスの構築維持に必要な素材類はどれも工業製品です。そうだとすれば、見事なまでに形も大きさも揃った現代のナスやキュウリのような一定規格の農産物類は、工業製品としての側面を持つと考えてもらってもよいかもしれません。ただ、その分、不慮の事態が生じると資材不足が起こったりし、それら生産物の流通も不安定になってしまうことでしょう。そのような際には、たとえ一時的にではあるとしても昔ながらの農法が蘇り、不格好なナスやキュウリの価値が見直されることもあるかもしれません。それと同様に、古ナスビ・古キュウリ的人間の具え持つ錆びついた知恵にも、非常時に際してはなお幾らかの出番くらいはあるのでしょう。
 多少の例外はあるでしょうが、現代の若者の殆どは、特定の標準規格に従いその形状・味ともにほぼ同等に栽培育成された見栄えのよいナスやキュウリに喩えることができるでしょう。市場関係者にとってはそのほうが好都合なのでしょうが、残念なことに、それらのもつ個々の形が大衆の目を楽しませることもなければ、それぞれに固有な味を発揮して庶民に感銘を与えることなどもほとんどありません。もちろん、その責任は、無自覚のうちにそんな育ちを強いられたナスやキュウリにあるわけではないのですけれども……。
小学校、中学校、高等学校、そして大学へと続く昨今の教育課程の状況には、都会も地方も大きな違いはなくなりました。もちろん、その課程を支える諸々の進学校や様々な学習塾の数、そこでの指導者の力量等にはそれなりの較差はあるでしょうが、大局的には似たようなものだと考えてよいでしょう。端的に言えば、そんな現代の教育課程の様態はハウス栽培の温室にも相当しているのです。そこで育つ現代の若者には、刻々と変化する外界の自然な陽光を十分に浴びたり、激しい風雨にさらされたり、巧みに擦り寄り噛みついてくる害虫類に対応したりする経験なしに育った規格品のナスやキュウリみたいなところがあるのです。ただ、実物のナスやキュウリなら、市場に出たあと売れようが売れまいがその役割はそこで終わってしまうので規格品でも構わないのですが、人間という名のナスやキュウリの場合にはそうはいきません。温室を出たあとも、そこで形成された資質を基に「往きの命」と「還りの命」の道程を歩み続けていかなければならないからです。
 真の意味での自然界の摂理や、社会と称される矛盾と不条理に満ちみちた泥沼から完全隔離された状態で成長を遂げ、そのままいきなり社会の一員となった存在は、目の前に広がる現実世界の異様さに少なからず戸惑い、苦悶し、挫折し、新たな道を創造するどころではなくなってしまうことでしょう。現代的教育課程という規格通りの温室の中で、物事には必ず答えがあると信じさせられて育った身にすれば、元々答えなど存在しない問題、自らが新たに答えを創造しなければならない問題、たとえ答えがあるにしてもその発見には一生涯かかってしまいそうな問題などに立ち向かうのは堪え難いことだからです。
 さすがにそれでは将来予想される諸々の難題に太刀打ちできそうにもないということで、昨今、一部には、そんな傾向を改めるため様々な工夫と配慮がなされるべきだとする見解も生じてはきています。しかし、温室に規格外の要素を多々取り入れその問題点の克服を図るのは、温室育ちではない存在が稀少種になった現在では容易なことではないでしょう。

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