時流遡航

~「安全」という概念に思うこと~(2012,10,01)

東日本大震災やそれに伴う福島第1原子力発電所の大事故以来、「安全」という概念が社会的に大きな問題となっている。だが、一口に「安全」とは言うものの、少し深く考えてみると、その意味は甚だ漠然としていて掴み所などまるでない。「絶対的安全を保証せよ!」などと声高に叫ぶのは容易だが、その前に、我われ国民は「絶対的安全」という言葉の背景にある問題点を冷静に見つめ直しておく必要があるかもしれない。

この人間社会を構成する多くの要素、中でも科学技術とそれに伴う人工的創造物というものは、それが永劫無窮に完全無欠であり続けることなどできるはずがない。絶対落ちない飛行機や絶対沈まぬ船舶、決して事故の起こらぬ巨大科学システムなど、始めから造りようがないのである。新たな技術を開発し、それに基づく人工物を生み出そうとする場合、当初からそれが完全無欠で絶対安全なものであることなど望むべくもない。

(技術的限界に直面したならば)

ひとつの科学技術が実用化される過程では、理論と実践の間を幾度となく往復しながら試行錯誤の実証実験が積み重ねられていく。その工程は、期待と不安とを交錯させながら恐る恐るパンドラの箱を一瞬開けては中を覗き、すぐさま閉じる行為の連続にも例えられよう。そして機能的に一定の安定度を持つ製品の製造やシステムの構築が可能と判断された段階で実用化が本格化する。実用化が促進され、それらが広く社会に普及したのちも、安全性や機能の向上を目指して技術的改良が加えられ続ける。

ただ、もうそれ以上は改善の余地がないという意味でなら、それが完成するということは永遠にあり得ない。それゆえ、オスプレイや原発がそうであるように、当該製品やシステムに根源的な危険性が内在し、その危険性の抑止に要するコストが膨大となったり、安全面での技術的限界の存在が明らかになったりしたような場合、それらをなお存続させるかその時点で廃止するかの判断を迫られることになる。しかし、現実問題として考えると、それは決して容易なことではない。一定期間ではあっても社会的に見て大きな役割を果たしてきた製品やシステムについては特に難しい。社会的な利益が大きく通常は重大事故が起こるリスクもかなり低いのだが、一旦大事故が生じると取り返しのつかない事態に発展しそうな科学技術をどう扱うべきかについては、今後国際的にも大きな議論を呼ぶことになるだろう。

東日本大震災から1年半を経た9月11日、日本学術会議は、「国内に万年単位で安定した地層を見つけるのは現在の科学的知識と技術能力では限界がある」とし、従来の地中最終処分案を白紙に戻すように原子力委員会に提言した。そして、数十年から数百年間を目安に一時的に高レベル放射性廃棄物を保管し、何時でもそれらを取り出せる施設を建設するようにと促した。その間に、地層の安定性の研究や廃棄物の放射能を早急に減らす研究が促進されることに期待しようというわけだ。同学術会議は、これまで無制限に増大してきた原発廃棄物の総量規制を検討すべきで、それ抜きで原発の比率を議論するなど無意味だとも進言している。

日本学術会議が原発問題について国に積極的な提言をするのはこれまでなかったことで、そのこと自体は評価に値するのだろうが、冷静に考えるとなお問題点も少なくない。今回の学術会議の提言は使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す再処理を前提とし、その過程で生じる高レベル放射性廃棄物の最終処分場に関する提言である。英仏両国からは日本の使用済み核燃料の再処理工程で生じた高レベル放射性物質の引き取りを迫られてもいるから、その分の最終処分をも考慮した提言でもあるのだろう、だが、日本が原発全廃に踏み切った場合には、再処理しないまま大量の使用済み核燃料を処分しなければならないから、こちらのほうはどう考えてみても地中の施設に埋蔵するか完全埋め立て処理するしかない。また、日本学術会議が取り上げた高レベル放射性物質であっても、数十年から数百年間一時保管を続けるとすれば、拡散の危険度の高い地上の施設ではなく、より安全な地下ないしは地中の施設にそれらを托すしかないだろう。その意味では地中最終処分案と比べてみて五十歩百歩と言うほかない。

(他力依存の安全確保は大問題)

これまでにも何度か述べてきたが、技術の是非を適切に評価する際に我われが忘れてならないのは、「人間は誤りを犯すものである」という大前提である。我が国の大組織などにおいては組織防衛意識のみが先行し、自らの誤謬を認めようとしない傾向が強いとも言われるが、もしそれが事実であり、その原因が完璧さを美徳とする我われの国民性にあるとするなら、その体質は即刻改めなければならないだろう。以前に米国でトヨタ車の不具合が端緒となってリコール問題が発生し、それが要因となって一時的に販売台数が急落したことがあったが、その時にも「トヨタの自動車技術に間違いはない」とする理念優先の社風とプライドがマイナスに作用した。客観的に見れば、米国産の車よりトヨタ車などの日本車のほうがずっと安全度も機能性も高いことは間違いない。だが、「技術にミスはつきものなので、ミスが生じたら直ちにそれを認めて的確に対応するのは当然だ」とする米国流の考え方への対応が不十分だったため、事実上トヨタ側には大きな過失はなかったにも拘らず、結果的に多大な損害を被ることになった。

いずれにしろ、今後我われは、「絶対的に安全な技術などはもともと存在せず、通常安全と称される諸技術は、たとえ僅かではあっても、所詮人間の能力の不完全さを何らかのかたちでその奥に秘め隠したものにすぎない」という自覚と、それゆえに担うべき社会的覚悟を持って、技術発展の陰で起こる諸々の不祥事に対応していくべきであろう。

近代社会が誕生する以前は、「安全確保」は自力頼みのものであった。動物的な嗅覚に近い感性をもって迫り来る危険を察知し、集団内で相互に助け合うことはあったにしろ、基本的には個々が具え持つ危険回避本能を頼りに己の身を守った。もちろん、それには限界もあったが、何よりまず身を守るのは自己責任だという自覚があったからリスク対応能力にも磨きがかかったし、また、万一不慮の事態に陥ったとしてもその運命に甘んじ耐えるだけの決意があった。だが、近代社会にあっては「安全確保」は他力頼みのものとなり、自らの身を危険から守ってくれるのは国家であり社会であるという考え方が当然のようになってしまった。自らは何をしなくても公的存在が危険を防いでくれるはずだとするこの他力依存の体質が徐々に危険察知本能を蝕むとともに、不祥事の際に自己責任を回避してしまいがちな昨今の国民性を生み出すことにもなったのだ。

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