時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(11)(2019,03,01)

(AIやITの未来像に抱く過剰な不安は抑制を)
 スーパーコンピュータや人工知能をはじめとする諸々の情報理処理システムはプログラム用言語、すなわち特殊な記号言語によって作動していると述べましたが、それについては冷静に受けとめるべきこともあるようです。とくに人工知能システムの問題を考える場合などには、そのような心構えをもって臨むことが必要でしょう。人工知能という言葉が独り歩きし、ついには現代社会全体をも席捲するようになった昨今では、ともすると万能の神器のように思われがちなのですが、その本質は人間が創出したプログラムの構成体、より正確に言えば記号言語の塊です。人工知能の「知能」という言葉が人間のもつ自主性や創造性、発展的思考力や喜怒哀楽などのような本質的な知性・感性を意味するものだとするならば、そんな知能の人工的な実現はなお遠い世界の話だと言うしかありません。
 たとえば人間が「1」という数を取り扱う場合には、何らかの個体が単独で存在している状況を思い浮かべますが、「1」という数字をコンピュータが処理する場合には、人間がそうするようにコンピュータ自らが何らかの状況を思い浮かべながら事に臨むわけではありません。また、人工知能を内有するロボットが「嬉しいです」という言葉を吐いたとしても、人間のように「嬉しい」ということの意味を理解して話しているわけではないのです。人工知能のプログラム構成やそのプログラムによって導かれるデータの有意無意の判定が人間の思考に依存するものであるかぎり、それは自立した知能ではありえません。厳密な言い方をすれば、所詮それは人為的な記号言語からなるプログラムの構成体に過ぎず、そこには人間にみるような自発的意識や意思など存在していないのです。
 確かに高速演算分析に基づくパターン認識や、諸変数を徐々に変えつつ与えられた問題の最適解を導き出すリカージョン(再帰機能:諸変数は異なるが本質的演算構造の同じプログラムを繰り返し駆動する手法)を多重多層に用いることによって、複雑かつ難解な問題の最適解を導き出すことが可能にはなってきています。しかし、それが最適解であるかどうかを判断するプログラムは、これまた人間が作成し人工知能プログラム群の中に埋め込むしかありません。さらにまた、得られた最適解を何のためにどう使うかを判断し実践するのも、結局、人間の能力に依存するしかありません。多重の階層構造を成すプログラム群の最上位には、人工知能システムの導出するデータを人間の意思判断に基づき意義づけするプログラムを雲込まざるを得ないのです。残念ながら如何に優れた人工知能といえども、自らの意思で自律的に自己目的を設定したり情緒的判断をしたりすることはできませんし、内有するプログラムを自ら書き換え進化させていくこともできません。遠い将来、人工知能にそのようなことができる日が到来したら話は別でありますけれども……。
 現在ではグーグルのCEOの地位にあるレイ・カーツワイルは、2045年頃には人工知能が諸々の面で人間の能力に追いつく技術的特異点が到来すると以前から主張し、現代社会に多大な影響を与えてきています(筆者の翻訳書「人工知能のパラドックス」(サム・ウイリアム著、2004年工学図書刊)をご参照ください)。しかし特異点に関する彼の相当に扇動的な主張には問題も多いですし、少なくとも「人間がその時点でコンピュータに打ち負かされ、SFの世界において人類が異星人に支配されるのと同様に、意識をもったコンピュータに我われは支配されるようになる」といった趣旨のものではありません。
(人工知能を操るのは結局人間)
 もちろん、スーパーコンピュータや人工知能が、現在我われ人間がやっている仕事のほとんどを代替するということは十分起こり得るでしょう。ただその問題を考えるに際し、我われの仕事をすべて奪われてしまうという不安感に陥ってしまうのは早計です。各種AIやIT技術によって現在の生産労働力が代替され多くの人が従来の仕事から離れることになってしまったとしても、社会全体における生産品やそれをベースにして蓄積される各種資産の分配を公正に行う手段さえ確立しさえしておけば、そんな社会の到来をなにも怖れることはありません。蓄積された社会資産を基にして、我われは現在では想像もつかないような斬新な世界を迎えることになる可能性のほうが高いからです。むしろ、そんな社会が到来したとき、時間と自由と生活の余裕を得た我われ人間が自らの創造力や独創力を駆使して何をすることができるかを考えてみることのほうが重要でしょう。
そもそも、ごく少数の権力者や専門家だけがAIやIT技術を完全支配し、そのため残りの人間は奴隷化されたり貧困によって飢え死させられたりするなどと考えるのは一種の妄想に過ぎません。冷静に考えてみれば、そんなことが不可能なことは明白でしょう。
「シンギュラリティ(技術的特異点)」が到来するとされる2045年頃になると、SFにみるように自立思考力と自己意識を持つコンピュータが登場し、人類を、さらには全世界を支配するといった話がまことしやかに流布されたりしていますが、真の意味でのコンピュータや人工知能の先端研究者で、そんなことを信じている者は皆無だと言ってよいでしょう。SF的世界を空想してみることはもちろん自由ですが、人類その他の諸生物に固有な自立的行動をとることが、人工的な機械構造体にとって如何に容易でないことか、またそれら機械構造体がどんなに優れたものであったとしても、自己意識をもって主体的に機能することがどれほどに困難なものであるかを認識しておく必要はあるでしょう。
 超高速で各種画像のマッチング処理を行い結果を提示してみせるコンピュータシステムや自動運転制御システム、人々の問いかけに適宜応じながら新たな知識を逐次学習していく対話型ロボットなどを目にすると、それらが高度な知能や知性を持ち具え主体的に機能しているかのように勘違いしてしまいがちです。そして、近い将来、それらが我々の能力を追い越すのではないかと早合点もしてしまうのですが、それは杞憂にすぎません。総ては人間がそれらのシステム類に挿入したプログラムによって、背後にいる人間の目的意識に沿った作動を見せているだけのことなのです。よく、TVなどでディープラーニングシステムの研究者などが、「我われにも何をやっているのか分かりません」などと発言することがありますが、その意味を「コンピュータ自らが目的意識を持ち、自主判断のもとに何かしらの結果や結論を導き出したり、提起したりしているのだ」と受け取るのは大きな誤解なのです。各種の統計処理用プログラムや状況判断用プログラムが高速作動するように設定されているだけのことにすぎません。我われはその詳細なメカニズムなどまったく知らないままに自動操縦の旅客機に乗って旅をしますが、旅客機が人知を超えたと思う人はいないでしょう。AIを新たな乗り物として未来へと飛翔する精神こそが重要なのです。

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