時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(33)(2016,09,01)

(父子寮に垣間見た困窮時の父性本能の悲しさ)
 父子寮汐崎荘へとボランティア活動に出向くようになって程なく、私は、窮状に追い詰められた場合に露わになる「男」というものの本性を厭と言うほど思い知らされる羽目になった。まだ学生の分際に過ぎなかったが、すでに一人の成人男子ではあったので、その折に受けた衝撃のほどはひとかたならぬものであった。極度の経済的な苦しさのゆえに各地の母子寮に身を寄せる母子家庭では、ほとんどの母親が、たとえ後ろ指を差されるような仕事に就こうとも、子どもだけは必死になって育てようとしていたものである。母親が我が子を食い物にするような例外的な母子家庭も存在はしたものだが、そのような家庭の割合は極めて低かった。
 だが、困窮し果てて父子寮を頼る父子家庭の状況は、母子寮の家庭のそれとはまったく逆のものだった。ほとんどの父親が強権を揮いながら、子どもらに諸々の不法な行為を実践させ、彼らが手にした幾ばくかのお金を巻き上げたうえに、自らは飲んだくれたりパチンコや競馬に呆けたりしていたのである。窮状に瀕した際の母性本能と父性本能の決定的な相違を見せつけられた思いがし、男に生まれた身としてはやりきれない気分にもなった。 
 汐崎荘での活動に参加し始めて間もなくのこと、折々顔を見せる4~5歳くらいの男の子と遊んでいると、その子が下半身のあたりをひどく気にしているのが目にとまった。どうやらお尻のあたりをとても痛痒がっているみたいだったので、どこか身体の具合でも悪いのかと問いかけてみたのだが、何でもないとの返事だった。そこで、しばらくそのまま放っておいたのだが、やはり見るからにその様子はおかしかった。そのため、活動仲間の力をも借りて、嫌がるその子の身体をしばし押さえ込み、粗末な半ズボンとパンツとを脱がせてみた。驚いたことに、お尻の部分を中心とした背部下半身一帯には無数の青(あお)痣(あざ)や擦り傷があり、そのうちの幾箇所かは腫れ上がり化膿さえしているところもあった。いったいどうしたのだとわけを訊いてもその子は頑として口を割ろうとしなかった。
 どうにも納得がいかないので、汐崎荘管理事務所に駐在するケースワーカーにその状況を伝え、対応策を相談しようと試みた。すると、その人物は、こともなげに、「ああ、あの子ですか……泣き屋ですよ」とごく短い一言を吐いたのだった。その表情や口調からは、「今更驚くには当たらない。この施設では以前からそんなことなどよく起こってはいるのだが、自分たちにもこれといった手の施しようがないのが実情なのだ」とでもいうような、諦めにも近い思いのほどが読み取れた。また、そのケースワーカーは、我々を宥めでもするかのように、「施設内の子どもたちに関して、常々いろいろな不祥事が起こっていることは承知しているのですが、法的な問題などもあって、余程の事でもない限り、個々の家庭の事情にまでは一定以上立ち入ることは許されないのです」とも話してくれた。
当時の東京などには、まだ「泣き屋」という商売があった。各地の繁華街周辺のガード下あたりで、見るからに薄汚れた格好をし、髪を振乱した女性が通路に膝を折って坐り込み、見るに堪えない哀れな表情を浮かべたり、泣き伏したりしながら、通行人に物乞いをする商売であった。泣き屋の前にはその様子に同情した通行人が金銭を投げ入れるための容器が置かれていたものだが、いまひとつ通行人に自らの窮状を訴えかけるのに一役買っていたのが、その脇で半べそをかきながら母親か祖母らしいその女に寄り添う幼い子どもの姿だった。ボロボロの衣服を纏い、空腹に堪えきれないといったその幼い子どもの惨状を目にした人々は少なからず心を痛め、そこそこの小銭を投げ与えるというわけだった。
 この泣き屋商売のいいカモになるのは、地方から上京してきたような人々がほとんどだった。長年都会住まいをしている人々には、そんな光景などごく見慣れたものだったから、余程のことがないかぎり彼らが泣き屋の手管に取り込まれるようなことはなかったようだ。実をいうと、地方から上京してきたばかりで世間知らずだった私なども、新橋や有楽町付近のガード下の路上に坐る泣き屋の哀れな姿にほだされ、10円、20円の小銭を貢いだものだった。ラーメン一杯50円ほどの時代のことだから、10円、20円という金額は貧乏学生の身にすればそれなりの大金ではあったのだ。だから、汐崎荘での活動を通じて泣き屋という商売の裏の実態を知ったとき、私が受けた衝撃はひとかたならぬものではあった。
(泣き屋商売の驚くべき舞台裏)
 我われが気にかけたその幼い男の子は、驚いたことに、一日幾ばくかの日当で父親の承諾のもと、泣き屋の女に貸し出されていたのである。泣き屋に幼い子どもを斡旋する仲介業者もあったらしい。貸し出された幼児は飲まず食わずのまま一日中女の脇に坐らせられ、物欲しそうな姿で通行人に助けを求める演技を強要されていたのだった。おとなしくその指示に従わなかったりすると、人目のないところを見計らって身体のあちこちを酷く殴られたりつねられたりするのはごく普通のことだったようだ。また、それでなくても、固い路面上に敷物もなしに長時間坐っていたりしたら、身体のあちこちに傷や痣ができたりシコリができたりするのは当然のことだったのだ。
 よくよく考えてみると、泣き屋の女が長年にわたってその商売に携わる場合、自分の子どもや孫を脇に連れ置いて人々の同情を買い続けることは不可能だ。子どもはどんどん成長するから、商売に適した年齢の幼児を同行するには他人の子どもを借りてくるしかないわけだ。裏を知らない通行人のほうは、親子か祖母と孫の組み合わせであると勘違いしてしまうのだが、実際には飛んでもない手口が隠されていたというわけだった。汐崎荘の問題の幼児が幾らの日当を貰っていたのかは知る由もなかったが、我が子を平然として泣き屋に貸し出している父親が子どもの稼ぎの全てを手にしていることだけは間違いなかった。
 貸し出された幼児のほうは、他人から何か訊かれても一切黙秘で通すように、父親や泣き屋の女、さらには仲介の者などから厳しく言いつけられていたのだろう。幼いながらも我われの詰問に全く口を割ることのなかったその子の根性は見上げたものだったが、その分だけ一層心に残る出来事だった。後学のために、その父親がどんな人物なのか一目見てみたい気もしたが、残念ながらそれはならなかった。
 同じ頃に、いまひとつ呆れるようなケースにも遭遇した。我われ学生に、お兄ちゃん、お姉ちゃんといつも人懐っこく寄り添ってくる小学生低学年の男の子があった。だが、あるとき同じケースワーカーから、純真そうに見えるその子が実は保護観察中であると知らされて一瞬我が耳を疑うことになった。その年齢で保護観察中とはどういうことなのかと疑問に思ったが、「事実は小説よりも奇なり」という諺そのままの裏事情があったのだ。

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