(文章表現媒体のデジタル化に伴う問題点を考える(後))
紙版の書籍や文献類を手にして順にページをめくりつつ記載された活字に目を通すとき、読者に伝わってくるものはその文章の表面的な意味だけではありません。格調高い伝統的な日本語表現に基づく優れた文学書などを手にする場合には、文章の流れに呼応した幾つかの身体的要素が意味をもってくるのです。人間の身体というものは不思議なもので、自身が深く傾倒する作家の作品や専門分野の書籍類を読み込もうとするときなどは、ただ視覚のみに依存しながら手にした書物に接するのではなく、手先の感覚をはじめとする全身の認知機能のもたらす心的リズムや感受性をもってその作業に臨んだりもします。頷いたり、首を傾げたり、感銘した文章を指先で何度もなぞったり、膝を叩いたり、繰返し前後のページをめくって内容を確認したり、また時には読書中の本のページから一旦視線を外して考え込んだりもするものです。そしてそんな一連の身体的反応を重ねることによって、手にした著作物に対する理解や共感の度が深まっていくことになるのです。
しかし、もしそれがデジタル画面に表示された文章だとすると、なかなかそうはいきません。どうしても視覚偏重になってしまうため、体感的に文意を把握することが難しくなるばかりか、デジタル画面に付随する光学的な特性のゆえに表面的に文字を追いかけるだけで精一杯となり、文章の真意やその背後に秘められた深い思いを汲み取るどころではなくなってしまうのです。身体との共鳴作用を起こしにくく心的集中力が拡散してしまいがちなその種のデジタル版書籍では、行間に隠れているものを読み取ったり、優れた文学作品などに特有な文章のリズムや艶やかさを体感したりすることは容易ではありません。そして、そういう状況が一定年月以上続くとなると、これまで存在したような優れた文学作品や専門文献の読み手や書き手がどんどん減少し、遂には従来的な意味での日本語文化、なかでも文学的文章表現の伝承は途絶えてしまうことでしょう。もちろん、完全デジタル化時代が到来した暁には、それはそれで新たな感性や表現技法が登場し、従来とは異なる価値観が誕生することになるのでしょうけれども、伝統的な日本語文化の特性、とりわけ文学的な文章表現体などは異質なものへと一大転換を強いられるに相違ありません。
(紙版書籍類のもつ意外な機能)
表現者の立場からすると、従来の紙版書籍にはあまり知られない意外な機能があったりもします。私の部屋の本棚には相当数の本が並べ置かれているのですが、原稿執筆を進めるうえでのアイディアに窮した折など、何気なくそれらの本の背表紙に目をやり諸々のタイトルを眺めたりしていると、突然、これはという着想が閃いたりもするのです。古典から現代書に至る各種の文学書、哲学書、科学書、芸術書、実務書、雑誌類が、それも和書から洋書などまでが何百冊、何千冊も雑然と積み並べられているわけですが、それらのタイトルに目をやるうちに個々の本の概要が脳裏に浮かび上がって相互に結び付いたり、タイトル同士が勝手にクロスし合ったりして、斬新な発想が生まれてくるからです。
老齢の身となった昨今は一段と記憶力が衰え、過去に読んだり学んだりした書籍のことなど、その内容はおろかタイトルさえも忘れ去ってしまっていることがあるのですが、書棚の書物の背表紙のタイトルや文字の形状、さらにはその本の大きさ、厚さ、様式、色艶などをさりげなく眺めやるうちに、突然眠っていた記憶が蘇り、思いを新たにすることもしばしばです。また、そんな過程を通して創作に必要な着想が生まれるばかりか、それに基づく叙述の展開の方針が定まってくることも少なくありません。もし、デジタル版の書籍しか存在しなくなってしまったら、そのような状況が生まれたりすることはなくなってしまうでしょう。画面上に何百冊、何千冊の書物のタイトルを示す文字が並んだりしたら、それらをちょっと眺めただけで嫌気がさしてしまうに違いありません。
もちろん、各書籍の写真を一冊分ずつ撮影しその画像データを保存しておいて、のちのちそれらを眺めることはできますが、そもそもそんな画像データを作成するには随分と手間もかかります。また、たとえそんな詳細なデータがあったとしも、何百冊、何千冊もの本の並ぶ書棚をさっと一瞥するような感じでそれらのデジタルデータを眺めるわけにはいきません。記憶に残る特定の書籍を探し出すようなとき、その正確なタイトルを忘れてしまっていても、紙版の本ならばその形状や紙質、表装の色艶などについての記憶をもとに書棚からそれを見つけだすことはそう難しくないでしょう。しかし、デジタル版のケースでは、自分の保有する書籍データをパソコンなどで開き、表示される内容をひとつずつ順に確認していくことが必要になってきてしまいます。タイトルを憶えている場合には検索をかけることが可能であるにはしましても……。
文章を執筆する人々の場合には、原稿のデジタル表記が当然となった昨今ではその表現体にさまざまな影響が生じたりもしてきます。三流の文筆家に過ぎないこの身の経験談で恐縮なのですが、原稿執筆の際、デジタル表記が文体に及ぼす影響はけっして少なくありません。現在でも原稿執筆を総て手書きで通す作家がいるようですが、私自身も昔は四百字詰めの縦書き原稿用紙を前に手書きで処理していましたから、その気持ちは十分にわかるつもりです。一字一句に深い思いを込めながら一画ずつ筆を運ぶ手書き作業を通してこそ、筆者は自らの理念や情念をそれら一連の文字に托すことができるものだからです。なかでもその筆者に固有の文章のリズムや艶やかさというものは、本来ならそんな記述の過程を経てこそ生まれるべきものだと断言してもよいでしょう。
ただ、ワープロ使用による原稿執筆が当然となった現代においては、一文字一文字に心魂を傾けながらしっかりした文章を綴るという行為を実践する筆者は殆どいなくなりました。ワープロによる執筆には、執筆速度が飛躍的に向上したり、修正や加筆が容易になったり、編集・校正作業がスムーズに進行したりするという利点はあります。しかし、その分、一語一語の日本語表現に深い注意を払い、優れた文章に不可欠な語調や読者の心に強く響く言葉遣いを駆使しながらの筆の運び、すなわち、文章の命とも言うべき「リズムと艶」にこだわる執筆手法は衰退しやがて失われていってしまうのです。実務的あるいは論理的な文章ならまだしも、文学表現にとっては、それは致命的な事態かもしれません。
「百円ライター」のこの身の原稿はもちろんワープロ仕上げなのですが、打ち終えたデータを縦書き仕様に変換してから必ず用紙に印刷し、黙読しながら心中でリズムや語彙の適否を再確認したうえで修正を加え、それを横書きデータに戻してから依頼先に送信するように心掛けています。拙いライターなりには日本語の表現体になおこだわろうというわけなのです。