田老大防潮堤の直下近くに見つけた僅かな空き地に車を止めると、我われは防潮堤内側に設けられた階段を駆け上りその上に立った。総延長2433m、海面からの高さ10mにも及ぶ田老の防潮堤は二重の構造を持ち、田老湾側に向かって「逆への字型」に大きく両端が伸び開く外側堤防の最上部は海側に突き出る「波返し構造」になっていた。一方、内側の堤防は田老集落の中心部に向かって「への字型」に大きく湾曲しており、こちらのほうは断面が「ハの字型」のどっしりとした構造になっていて、外側の堤防よりも遥かに頑丈な設計が施されていた。そして、それら両堤防は、それぞれの「への字型」の頂点に当たる中央部で互いに接するように配置されていた。大まかには、横方向に長く伸び出た扁平X字型の構造を想像してもらえればよいだろう。波高20mもの今回の大津波は、日本一とも謳われたその二重防潮堤を軽々と乗り越え、田老の町に襲いかかってきたのである。
防潮堤上から被災状況を確認
我われが立ったのは海に向かって左手に位置する内側堤防上であった。眼下一帯の建物群が破壊し尽くされたなかで、一棟だけ内側堤防端近くにぽつんと残るのは田老漁協の建物だった。三階以下は内部が完全に破壊され、最上階の四階部分だけが辛うじて浸水を免れたもののようだった。廃墟と化した集落地一帯の膨大な廃材や瓦礫の山の撤去作業は、その時点ではなお手つかずの状況にあり、遠くの高台に散見される無被災の家々にも人が住んでいる気配など感じられなかった。電力、水道、ガス、排水施設等のインフラが寸断され、生活物資の調達も不可能な状況では、それも当然のことではあったろう。
すぐ眼下の民家跡には子供のものと思われる多数のノートや写真帖類、さらには大小各種の縫ぐるみ類が散乱したままになっており、暗黙のうちにそれらが物語る悲劇の有り様が強く胸に迫ってきた。その民家の近くを通る防潮堤昇降用階段の脇には一抱えもありそうな巨大な犬の縫ぐるみが据え置かれ、その前に線香立てと花立てが設けてあって、焼香や献花などもなされていた。どこか悲しい目をしたその被災縫ぐるみのお犬地蔵様の前に佇んだ我われは、自ら進んで深々と合掌し、心からの祈りを捧げたような次第だった。
我われの立つ内側の大防潮堤そのものは、全体的にはほぼ無傷なままで残っていた。堤防上の太く頑丈な金属製街灯柱や昇降用階段手擦りは根元から飴のようにぐしゃぐしゃに折れ曲がり、鉄製の巨大水門も破壊されてしまってはいたが、ごく一部のひび割れを除けば、内側堤防自体はしっかりと原型を留めていた。一方、堤防上を中央部方面に向かって歩きながら海側を見ると、外側堤防左手部分全体は完全に破壊し尽くされ、僅かに土台の一部だけが残っているのが目にとまった。意外なことに、外側堤防と海辺との間には相当広い陸部があり、破壊された外側左手堤防と内側左手堤防に挟まれた部分にもかなりの面積の土地が広がっていた。ただ、それら陸部は一段と赤茶けた色に変り果て、巨大な鉄材をはじめとする瓦礫類が放置され、一面に散乱していた。また、各種港湾施設、水産加工場、魚市場、さらには海浜の観光旅館やホテルだったと思われる建物類の形骸が無残な姿を晒していた。内側堤防の中央部に立つと、外側堤防と内側堤防とに挟まれた前方の空き地に、グシャグシャに潰れた無数の車が無造作に積み重ね放置されているのが見えた。
類なき大防潮堤建設の果てに
1867(明治29)年の三陸大津波によって当時の田老村では全集落345戸が潰滅し、2000人近い住民が死亡した。この時の津波の波高は14.6mだったと記録されているが、1611(慶長16)年の慶長大津波の波高はそれを上回る15~20mであったようで、その時も全集落が被災している。三陸大津波直後、一時的には住居の高台移転の必要性が叫ばれ、ごく一部の人だけはそれを実践したが、生存者僅か36名という状況が結果的に負の作用をもたらした。他所からの移住者を含め、田老復興に当たった人々のほとんどは大津波の恐怖やそれに伴う惨劇を実感したわけではなかったから、利を求めて先を急ぐ判断のほうが優先されることになったのだという。
人間の悲しい性とでも言うべきなのだろう。津波直後は沖から聞こえてくる物音にも異常なまでに神経質になり、避難騒ぎを起こしたりもするが、日が経って落ち着きを取り戻すに連れ、大津波はそう度々襲来するものではないと思うようになってくる。やがて「一生に一度来るか来ないかの津波を恐れて漁師が丘に上がってしまうなんて何事だ!」との声が上がるようになると、高所移転の話などいつしか忘れ去られることになったという。そのような状況は、三陸大津波の際に38.2mという最大波高を記録し全村がほぼ壊滅した綾里をはじめとする他の三陸被災地域の村々でも同様で、結局、高所移転などほとんど問題になることもなく、家屋群の流出跡地に次々と集落が再建された。
だが、明治の大津波から37年後の1933(昭和8)年、三陸一帯の集落は再び大津波に襲われ、壊滅的な状況に陥った。なかでも田老の被害は甚大で559戸中500戸が倒壊・流出する事態となった。田老集落の再興に当たった岩手県当局は、識者の意見に従い高所への集団移転を進めようとしたが、田老周辺には新たな宅地造成に適した高台もなく、海岸線から離れたところに居住区を新設すると漁業が成り立たなくなるおそれもあった。そこで、田老村は敢えて岩手県の方針に逆らい独自で防潮堤の建造を進めることを決断、極めて厳しい村の財政の中から初期費用を捻出したり、堤防建設予定地の農地を所有者から自主的に無償提供してもらったりしながら着工をめざした。そんな田老村民の熱意を無視できなくなった国や県も遂には支援に動き出し、田老防潮堤建設は公共事業として認可され、戦争によって工事が中断される1940(昭和15)年まで、960mの堤防建設が進んだ。
戦後になって再開された工事により、1958(昭和33)年には全長1350m、基底幅25m、上幅3m、海面よりの高さ10mの世界に類を見ない津波大防潮堤が構築された。その後も防潮堤は増築され、1966(昭和41)年に「万里の長城」などとも言われる総延長2433mの巨大な二重防潮堤が完成した。その一方では防潮林や遠隔操作可能な田代川水門の建設、避難道路の整備や避難訓練も進み、田老の津波対策は万全となったかに思われた。チリ沖地震津波でも無被害だったことから、田老の防潮堤は世界中の津波研究者の間で注目される存在になった。そして、2003(平成15)年には「津波防災の町」宣言をするに至ったのだが、そんな宣言を嘲笑うかの如くに今回の大津波は田老集落を無残に破壊し尽くした。