(文系・理系融合の具体的動きも)
STAP細胞問題については本連載の第86回と第87回において随分と厳しいことを書いたが、実際、その後の流れはほぼ予想した通りの展開になった。そして、これもその折に指摘したように、それなりの覚悟で一連の事態の収拾に臨んでいた野依良治理化学研究所理事長の任期を残した辞任をもって、STAP細胞騒動はともかくも幕を閉じることになった。3月23日の会見で、野依理事長は、STAP問題については理研の研究者や組織全体に責任があることを認めるかたわら、大学や公的研究機関での研究不正で組織の長が引責辞任する事例は皆無だと述べ、自身の辞任は高齢のゆえだと釈明した。
理研の最高責任者としての野依理事長に対するメディアの批判は辛辣そのものだったし、それにはやむを得ない一面もあったが、その一方、実像の野依氏は社会科学や芸術などの分野にも高い見識をもつ人物であった。門外漢の身にも拘らず、かつて野依理事長以下の物理化学界重鎮同席の日本学術会議第三部会で拙い講演をさせられたことや、理化学研究所播磨研究所光科学総合研究センター「SPring―8」の学術成果集制作者などを務めた縁もあって、理系・文系の枠組を超えたかたちでの学術界の発展を切望する野依理事長の胸中は熟知していた。組織の最高責任者として避け難い結果だったとは言え、そんな理事長の心境を思うと、今回の辞任劇の顛末には甚だ残念な思いもしてならない。
ただ、そんな展開の中にあって、理研の後任理事長に松本紘前京都大学総長が就任したのはせめてもの幸いだった。宇宙プラズマ物理学を専門とする松本紘新理事長は昨年9月まで6年間にわたって京大総長を務め、高校時の幅広い活動を受験成績評価に加味する「特色入試」導入を実践した。また、5年一貫制で文系と理系とを融合した新しい大学院を設立するという新たな改革をも断行した。そのことからも分かるように、文系・理系を超えて学術体系の発展を構想する力量を持つ松本新理事長には期待するところが少なくない。過去、国立大学協会長や文科省の科学技術関連委員を歴任し、政府の学術政策にも関わってきたそのキャリアを理研において存分に活かしてほしいものである。
(古都奈良での画期的な講演会)
文系・理系融合の学術研究発表の適例として想い出されるのは、東日本大震災の前年の秋に東大寺脇の奈良県新公会堂能楽ホールで開催された講演会である。「夢の光が照らす文化と歴史」というテーマを掲げ、地元の高校生にも参加してもらったこの講演会の内容や展開には実に興味深いものがあったので、その際の様子を詳しく紹介しておきたい。
この講演会は[SPring―8]、すなわち、「理化学研究所播磨研究所・放射光科学総合研究センター」が主催し、東京藝術大学が協力、文部科学省・奈良県などが後援というかたちをとって開かれた。古都奈良の能楽堂で世界最先端を誇る光科学研究センター主催の講演会開催と言うと首を傾げたくなる方もあろうが、1千3百年ほど前のこの奈良では当時の最新科学知識や最新科学技術を駆使して都の建設が進められていたことを思えば、それは決して場違いなことではない。以前に拙稿でも紹介したように、SPring―8ではネイチャーやサイエンスといった世界の一流科学誌の表紙を飾るような研究が次々と実践されているのだが、光科学という特異な分野のことでもあるため、一般にはその研究の重要性がほとんど認識されていない。だが、実を言うと、現代の高度な光科学の研究は一見無縁にも映る古代の歴史文化の研究にも大きく貢献しているのだ。そんな事実を知ってもらおうという狙いもあって、先端光科学研究の世界と古代歴史文化研究の世界とのコラボレーションをアピールする講演会が実現したというわけなのだった。
前述したように、SPring―8の学術成果集執筆に携わったこと、また、以前に所属していた大学を辞してフリーランスになったあと東京藝術大学大学院の客員教授を長年務めていたこともあって、非力な身ながらも双方を繋ぐかたちでその場に顔を出すことになっていた。当日の会場ロビーやその周辺の壁面には、ツタンカーメン王の黄金マスクの精緻な小型複製模型や各講演者の研究を紹介する諸々の資料が展示され、多くの来場者の目を引いていた。また会場となったこの公会堂の裏手には壮麗な造りの日本庭園が広がっていて、一段と雅(みやび)な雰囲気を醸(かも)し出していた。
全部で5百席ほどの能楽堂の最前列に陣取った私は、能舞台を見上げるようにして講演会の成り行きを見守った。控えめに構える主催者のSPring―8側の短い挨拶が終わると、「アートとサイエンスの融合」という演題で基調講演に立ったのは宮廻(みやさこ)正明藝大教授だった。藝術作品の保存修復の専門家である宮廻教授は、「芸術の世界では創作と保存とは相互に影響し合い進歩を遂げてきたが、伝統的に目視に依存してきた文化財補修や美術史研究が、その時代の最新科学と連携し発展することはまずなかった。だが、近年、芸術と科学の融合を通して、目視では不可能だった各種情報が得られるようになり、それらを基にして高度な文化財修復を行ったり、従来見ることのできなかった文化芸術の奥の世界に光を当てたりすることが可能になった。ただ、いま何よりも修復を急がなくてはならないのは我々現代人の心のほうなのかもしれないが…」という趣旨の講演を行った。
講演の中で、宮廻教授は、SPring―8でも物質研究に用いられる解析手法の一つ「蛍光X線分析法」が、修復対象の文化財の内奥に隠された貴重な情報の把握に大きく貢献している事例などを紹介した。古い書画の外縁部や裏張りなどを現代の先端技術で調べると、ほんの僅かな糸屑の断片からでも、用いられている絹糸の種類や特徴、経年数、劣化度までがわかるという。そのデータは、書画の正確な制作年代の特定のほか、修復用の絹糸をX線照射により書画実物の素材の状態に合わせ意図的に劣化させる作業にも役立っているようだ。従来は確認できなかった国宝級の仏画などの裏彩色の意義や、制作過程における隠された構図、過去の修復が原作品に及ぼした影響などを知ることもできるらしい。
従来の修復技術が先端科学技術と結び付けば文化財の復元や精巧な複製が可能になり、保存修復学の世界に創造や創作の要素が導入されうるという発言も興味深かった。宮廻教授は、一対の文化財の掛軸の図柄や素地を詳細に分析した院生が本来は3軸1組の構成になっていた筈だと推定、現存しない残りの1軸を創造的に復元した事例を映像で紹介したが、古びた感じも含め実に見事な出来栄えだった。また劣化し茶色にくすんだ高句麗古墳壁画「朱雀」の現状写真と模写図の映像に加えて、色鮮やかな再現壁画の映像が紹介された。科学的分析に基づき図柄や色彩はむろん、壁面の材質やその手触りまでをも再現したのだという。現代人が忘れて久しい触感による古代壁画の鑑賞復活というわけなのだった。