時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(25)(2014,04,15)

現在では2万人を超える職員を有し、世界の良心とも謳われるBBCの初代会長を務めたジョン・チャールズ・ウォルシャム・リースは、1889年、スコットランド東岸に位置する田舎町ストーンヘイヴンで牧師の息子として生まれた。成人し、英国民の義務ともいうべき兵役を挟み各種職業を遍歴したリースは、33歳になった22年当時は国会議員秘書を務めていた。その年の10月のこと、近々設立される予定だという「英国放送会社」の概要と同社の求人広告が新聞に掲載された。ただ、その募集人数はわずか4人だけで、その職務内訳は、総支配人、編成部長、主任技師、それに秘書というものだった。この求人広告を目にしたリースは大胆にもそのなかの総支配人に応募することを決意し、「年俸2千ポンド希望」と書いて必要書類を提出した。議員秘書の経験があるとはいえ、もともとグラスゴー王立工芸専門学校出身の一介の技師にすぎなかったリースの立場からすると、それは身のほど知らずともいうべき振舞いであった。

当時の英国逓信省や産業界は、植民地を含む国土の広さや経済力の大きさを考慮し、なんとかしてアメリカなどの放送業界の実態とは違う高い秩序と統一性のある放送形態を実現できないものかと画策していた。そしてその結果、イギリス独自の放送のありかたを目指す「英国放送会社」、すなわち、のちに「英国放送協会」となる「BBC」を設立する運びとなった。ただ、10万ポンドにものぼる投入資本の構成をめぐって政府や産業界関係者の意見が対立し、会社の設立登記は予定よりも大幅に遅れてしまった。BBCの設立責任者らは有能な経営者を求めて奔走してみたが、新会社の設立と運営には諸々の障害が予想されたこともあって、白羽の矢を立てた人物たちは経営者就任要請を次々に辞退したのだった。そのため12月半ばになり遂に同社の設立責任者からリースに呼び出しがかかってきた。

2回にわたって行われた面接で、リースは「確固たる信念のない理想主義は悲惨なる結果をもたらすのみである」という持論を堂々と展開し、面接官らと激しくわたりあった。結局、その信念の強さが高評価されるところとなり、ほどなく彼は同社の初代総支配人として無事採用されることになった。年俸のほうは希望額の2千ポンドには達しなかったが、目標額より250ポンド低いだけであったから、リースに不満のあろうはずもなかった。いくつかの偶然も重なってリースがBBCの総支配人に就任したことは、その後の同社の発展にとってたいへん幸運なことであった。

(BBCの苦悩と飛躍)

新会社に就任したばかりのリース以下4人の職員は1日12時間以上も働かなければならず、それでもなお未処理の仕事は溜まるいっぽうだった。だが、彼ら4人の職員はいまにも倒れてしまいそうな状態に陥りながらもその苛酷な労働条件に耐え続けた。新放送局の準備や番組内容の構成に関してリースらは連日逓信省と協議を重ねなければならなかったし、各新聞社や通信社にはニュース放送の制限緩和に応じてくれるように懇願し再三交渉しなければならなかった。まだBBCには独自のニュース・ソースが存在せず、放送に必要なニュースの提供をすべて新聞社や通信社に仰ぐしかなかったからだ。さらにまた彼らは、産業界各方面に逐次業務の進行状況を報告する責務をも背負っていた。

ところが、そういった諸業務の全体的な遂行がまだ軌道に乗らないうちに、BBCは新聞経営者協会から放送番組の掲載に対しては広告料を支払うようにとの通告を受ける羽目になった。BBCは営利会社であり財務的裏付けもあるとのことなので番組掲載料を支払えというのが新聞経営者協会の言い分であった。現実には各紙に広告料を支払うだけの財務力はなかったし、だからといって番組の予告がまったくなされないということになるとリッスナーを得られず放送業務そのものが成立しなくなってしまうから、その要求に対しBBCの取締役会は動揺し、対応策に苦慮するばかりだった。

だが、リースはそんな圧力に対し敢然と立ち向かった。彼はただちにペル・メル・ガゼットというごく限られた読者対象の日刊紙と交渉し、BBCの番組案内を広告欄に無料で掲載してもらうことに成功した。意外なことに、番組案内を掲載するようになってほどなくペル・メル・ガゼットの販売部数は爆発的に増大し、それを知った新聞経営者協会は突然態度を翻してあと半年間だけは無料で番組案内を掲載する旨を申し出た。そして、結局、その後も新聞経営者協会が番組案内の掲載を中止するようなことはなかった。

(BBC独自の週刊誌創刊へと)

そんな状況を的確に読み取ったリースは、その年の秋にラジオ・タイムスというBBC独自の週刊誌を創刊した。番組案内とその時間表、簡単な番組解説、番組にまつわるエピソードとそれらに関連する写真、BBCの放送理念やその指針、さらにはそれらについての聴衆との間の質疑応答などを掲載した週刊誌だったが、刊行直後に60万部、3年後には100万部、そしてそれから60年後の80年代に入ると400万部を超える発行部数を誇るようになった。計上利益のほうも年間100万ポンド以上の黒字を出すようになり、BBCの財政に多大な貢献をするようになった。

しかしながら、ラジオ・タイムスを発行したあともリースは新聞社との厳しい戦いを強いられた。新聞連盟は英国逓信省に対して、「BBCが新聞と対等の活動をするようになった場合、すでに多大な資本を投下している新聞社や通信社に大打撃をもたらすことになる。またそのような事態になれば、新聞郵送で利益を上げている逓信省にも悪影響が及ぶことになる。それゆえに、BBCに新聞社と同様の活動を許可することのないようにしてもらいたい」という強硬な申し入れをしたのだった。

当時、新聞社と政治家との間には共生関係が存在していたし、BBCが独自の取材活動をするようになるのはまだずっと先のことだという判断もあったので、逓信大臣は新聞連盟の要求を即刻受け入れた。その結果、BBCはいっさいのスポ―ツ中継放送を禁じられることになったばかりでなく、放送のために必要なニュースのすべてを新聞社や通信社から購入しなければならなくなってしまった。また、ニュース放送も夕刊販売の終了時刻である午後7時から午後11時の間にかぎって許可され、しかも、新聞連盟が提供する1300語前後のニュース要約を「ロイター通信」、「新聞連盟」、「取引電報」、「中央ニュース特約」などのクレジット入りで放送するという条件までつけられた。さらに、ラジオ受信機数の増大を見越した新聞連盟は、一台につき4分の1ペニーの版権使用料をBBCに課すという追加条件まで持ちかけてくる有様だった。

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