時流遡航

《時流遡航311》 日々諸事遊考(71)――しばし随想の赴くままに(2023,10,01)

(人間というものの宿命的本質について考える―① )
 世の片隅で日々ささやかに生きる人間など、一介の塵どころか、顕微鏡で見る一個の細菌にすら値しないとでも言いたげに、世界には諸々の嵐が吹き荒れている。台風などに象徴される自然界の猛威もさることながら、昨今は国家間の紛争、政治世界の紛糾、宗教界の対立、思想上の闘争、行政界の擾乱、民間企業間の熾烈な競合といった人為的嵐のほうも凄まじい。数々のそんな嵐に翻弄され、当所もなく中空を舞い漂うこの愚身ごとにきは今更できることなど何ひとつ有りはしない。だが、たとえ存在自体が無そのものの命の屑ではあったとしても、生き永らえているかぎり、自己意識だけはなお密かに息づき続ける。そして、一生命体としての最後の証とでもいうべきそんな儚い意識の屑が、無力を承知で微かに蠢き、そっと囁きかけてくる――この世から消え去る前に、自らを人間と称しつつ生きてきたその愚かさくらいは、せめて深く反省しておくようにしろよとばかりに……。
 昨今のロシアや中国、北朝鮮などのような専制国家においてはむろん、民主主義国家を自負してやまない米英独仏や日本のような国にあっても、民衆は内心で強く自由を求め、平等の重要性を訴えかける。またそれは、表向きもっともらしい主張でもあるように思われる。だがその割には、自由や平等という概念の本質、さらにはそれらの概念が成立した背景などについて深く想いを廻らすことは滅多にない。現代人の殆どは自由や平等という言葉のごく上辺だけを見聞きして、わかった気分になっているだけのことなのだ。かつて大思想家と呼ばれる数々の人物らが存在し、自由や平等の意義について深い考察を進めてきたことは事実なのだが、今ではそれらの論考に目を向ける人々は極めて少ない。実利実益と直結する知識分野の研究のみが優先され、哲学や社会学、心理学などのような人間精神の深層に分け入る学問分野が軽視されるようになったことも大きく影響しているのではあろう。だが、最早、そんな現状を再考し修復を試みることは至難の業のようである。
 そもそも、人間にとっての自由とはどのようなものなのだろうか。他者との関係を築ことうとすれば、そこには必ず一定の自己抑制状況が生じてくる。二人の異なる人間が全く同一の人生観や価値観、能力を持ち合わせていることなど有り得ないから、たとえ双方が深く意気投合するような場合でも、その関係を維持するには何かしらの自己抑制や相手との妥協が不可欠だ。ましてや、各種共同体、地域社会、さらには国家なるものに身を置くことになるとすれば、意識するか否かにかかわらず、大きな自己抑制や自己妥協を迫られる。個々の人間が己の属する社会共同体の倫理規範や法的規範を遵守しないようならば、その組織体を維持することなど不可能であるからだ。裏を返せば、ある社会共同体に属するということは、少なからずその共同体の規範に束縛されるということに他ならない。
 そうしてみると、「自由」と「束縛」という言葉がそれぞれに意味するものは、相反する対照概念であるように思われてくるし、実際、一般的にはそのように受け止められている。しかし、一歩踏み込んで熟考してみると、意外なことに、人間にとっての「自由」と「束縛」なるものは、相互依存することによってはじめて成立する概念であることが明らかになってくる。よく知られる「鶏が先か、卵が先か」という議論にも似て、「自由が先か、束縛が先か」という何とも救い難い循環論的実態が浮上してくるからなのだ。しかも、この問題は、人間なる存在が生来具え持つ厄介至極な本質に起因しているようなのだ。
(「自由平等」なる概念の裏に)
 宿命的に人間が背負う諸々の社会的束縛というものは、個々の人間の自由意志やそれに基づく諸行動を抑圧するし、実際、そんな傾向が極めて強い社会や国家も少なからず存在している。そのような状況下にあって、自らの意志に基づく言動が抑制されていると感じた人間というものは、当然のこととして「自由」なるものを希求するようになる。確かに、社会的規範に起因する過度の「束縛」というものは「自由」を生み出す原動力となるから、一見したかぎりでは、それら両概念は相反するもののようにも思われる。だが、その一方で、共同社会の種々の束縛に耐えかねた人間が、真の自由なるものを求めて独り己の本意に沿う道を歩む決意をしたとしてみよう。表面的には大いに評価に値する決断だとも思われようが、冷静になって考えてみると話はそれほど単純なことではない。
 自らの自由意志を貫くべく、社会共同体との関係を断ち切ったり、それに一定の距離を置いたりする生活を送るようになった場合、当初は気楽で大きな解放感を覚えるかもしれない。だが、程なくしてその状況は一変してしまうことだろう。特異な世捨て人か余程の変人でもないかぎり、想定していた以上の孤独感、孤立感、不安感、健康危惧、経済的困窮、生活維持上の諸難題などに直面し、社会共同体の重要性に対する己の認識が甘かったことを痛感させられることになる。そしてそれを契機に、元の共同組織体へと帰順したり、他者に妥協・依存したりすること、すなわち、己の自由を敢えて抑制し、社会規範への従順さを示す行為をとるようになっていく。皮肉なことだが、自由が束縛を生み出すというわけなのだ。それは、かつてエーリッヒ・フロムという社会心理学者が唱えた「自由からの逃走」という概念そのものの状況だと言ってよいだろう。何とも奇妙なことなのだが、「自由」と「束縛」とは相互に依存し合い、また循環し合っているのである。「自由」の誕生には「束縛」が必要だし、「束縛」の誕生には「自由」が不可欠だというわけなのだ。
 一方また、「平等」と「格差」という両概念の間にも同様の関係性が潜在している。資本主義社会の深まりの中で生じる諸々の較差のゆえに、窮乏層の人々は必然的に平等を求めるようになり、過去の歴史が物語るように、その欲求が昂じると革命運動などへと至る。そして、庶民平等の理念実践を謳う社会主義や共産主義社会の実現へと向かっていく。しかし、小さな村社会ならまだしも、国家レベルの広範な社会においては、多種多様な生産物や国家資本の平等な配分、各種組織制度、施設などの均等な普及を実践することは、想像されている以上に難しい。結局、それら一連の実務を遂行差配する統括責任者の登場が不可欠となり、やがて彼らは強大な権力を持ち、権威主義者や専制主義者へと変質していく。
また、当初は平等社会実現への流れを喜んでいた庶民らも、他者とは異なる自らの能力を評価などしてくれず、厳しい画一的規範だけを強要される社会で生きる意欲を失くし、絶望感を抱きはじめる。「平等」など絵に描いた餅に過ぎないと感じるようになり、やがてその心中には格差社会を肯定する思いが再燃してくるのである。「自由平等」と「束縛格差」の両概念は、矛盾に甘んじて生きることが宿命の人間の心奥で相互依存を繰り返し、果てしない負の循環を続けていく。そんな人間にとっての自立とは如何なるものなのであろう。

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