時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(15)(2017,09,01)

( 沖縄到着直後に遭遇した椿事とは)
 この際なので、87年当時の沖縄の旅にまつわる懐かしい想い出についていま少し筆を執ることにしてみたい。「守礼の門」で知られる首里城の復元もまだなされていない頃のことなので、それから30年もの歳月を経た現代の沖縄の状況や、近年の同地への旅で本土の人々が受ける印象とは随分と異なることだろう。しかし、絶え間なく変遷する時代の流れの一時点における視座に立った沖縄の展望を記し置くことは、それなりに意味のあることではないかと思う。
 同年の9月22日、金環食取材のため沖縄入りしたのだが、那覇空港到着直後に想定外の事態に直面することになった。空港ですぐさま乗車できるようにとトヨタのレンタカーを予約しておいたのだが、ある理由で空港内にレンタカーが持ち込めなくなり、私を含む数組のお客が長時間立ち往生させられることになったのである。トヨタ・レンタカーの空港事務所員はひたすら恐縮し、緊急の打開策として空港内に一台だけ駐車している同社の大型ワゴン車に我々を乗せ、那覇市内の営業所まで案内するので、そこからレンタカーを利用してもらいたいと申し出てきた。那覇市街から空港へと車が入ることはできないが、空港から市街への通行は規制されていないからとのことで、直ちに我々はそのワゴン車に乗り込み空港を離れたのだった。
 実を言うと、たまたまこの時期、那覇では沖縄国体が開催されており、昭和天皇の名代として出席していた浩宮(現皇太子)一行が、当日、沖縄から東京へと帰る予定になっていたのである。日本復帰が実現してからまだ15年ほどしか経っていなかった当時の沖縄の複雑な社会状況を配慮し、浩宮一行の警備には厳重な体制が敷かれていた。しかも、その日は現地の諸事情で刻々と警備体制が変わり、最終的には空港付近まで通じる裏ルートまでもが完全規制されることになり、レンタカー会社もお客に貸す車の搬入ができなくなってしまったのである。
 空港と那覇市内とは片側3車線の立派な道路で結ばれていたが、我々を乗せた車が空港を出るとすぐに、異様な光景が目に飛び込んできた。車窓越しに反対側車線を見やると、沿道には5メートルほどの間隔で警察官がずらりと並んで警戒に立ち、その向こうに日の丸の小旗を手にした溢れんばかりの見送りの人々の姿が見えた。大戦中の悲惨な歴史のゆえに日の丸に対して複雑な感情を抱く人々も少なくないと聞いていた沖縄にしては、日の丸の小旗をもつ人の数が想像以上に多かった。何かしらの演出などもあったのかもしれないが……。
 車を運転していたのは、三十歳前後のごく普通な感じの男性だった。無事に空港を出た車は市街に向かって快調に走り続けていたが、一本の道が右手斜め前方から合流する変則T字路のところまでくると、速度を落として中央分離帯のほうに寄り、ゆっくりと反対車線方向へと回転しはじめた。そして、進行方向に対して車が四十五度ほど曲がったときである。沿道に並ぶ警官の数人が血相を変えて我々の車に駆け寄ってきた。そして、そのうちの一人が大きな身振りで即刻直進するように運転手に向かって指示を出した。だが、次の瞬間、その運転手は警察官のほうを睨むと、毅然としてこう言い放ったのだった。
「私の事業所はそこなんですよ。いったいあなたがたはこのまま直進して私にどこへ行けっておっしゃるんですか?」――運転手が指さす方向を見ると、なるほど、反対車線側の進行方向30メートルほどのところに目指すレンタカー会社の営業所の看板が見えていた。彼はUターンしてその営業所に戻ろうとしたのである。
(ここは沖縄なのだと思い知る)
「浩宮の一行が間もなくここを通過しますので、こちら側の車線は交通規制が敷かれています。直進してください」
 そう言いながら、二人ほどの警官が車の回転を妨げるようにして右手前方に立ちはだかった。しかし、驚いたことに運転手は一歩も引こうとしない。
「あなたがたも仕事なのかもしれないが、私だって仕事なんですよ。交通規制するならするで、はじめから時間と場所をしっかり決めてくれているならまだいいんです。あなたがたのやり方は行き当たりばったりじゃないですか。また過剰警備もいいところですし……」
「お気持ちはよくわかりますが、万一に備え警備本部から強い規制命令が出ているんです。一時直進して待機してください」 
 この時には本土から多数の警察官が警備の応援に派遣されていたのであるが、非常時に表立って市民に対応するのは地元の警察官の任務になっているようだった。東京あたりなら、この時点で警察官は公務執行妨害行為として車を強制排除し、運転手の身柄を拘束しかねないところだったが、そこは沖縄のこと、警察官もそれなりに慎重であった。固唾を呑んで事態の推移を見守っていると、運転手は一語一語に力を込めてさらに反論し続けた。
「このお客さん方だって、もう一時間半以上も予定が狂ってしまってるんですよ。しかも重い荷物を持ってあちこち振りまわされて……。本来なら空港からレンタカーに乗ってもらうところを、こうして我慢してもらってるんですよ。そういった一般の人々の迷惑はどうなるんですか?」
 驚くべき光景が展開したのは次の瞬間だった。私は思わず我が目を疑った。なんと、婦人警官を含む二人の警察官が、少し顔を紅潮させながらも、車中の我々一人ひとりに向かって鄭重に頭をさげ始めたのである。東京などでは絶対に考えられないことであった。私は強い衝撃を覚えながら、「ここは沖縄なんだ!……人々が黙々として重い歴史を背負ってきた、守礼の国沖縄なんだ!」と心の中で叫んでいた。
 私などは、この際直進するのもやむを得ないだろうと内心で思い始めていたのだが、その運転手は頑として車を動かそうとしなかった。彼には彼なりの内なる信条があったのだろう。そして、その時とうとう、斜め前方の道路のほうに浩宮一行の車の列が現れた。警察官たちは慌てて歩道側の持ち場に引き下がり、我々の車だけが道路中央に取り残されるかたちになった。
 浩宮一行の車列は、何事もなかったかのように我々の車の脇を通り過ぎていった。車中の浩宮が至近距離から我々のほうに向かって軽く手を振りながら微笑みかけるというおまけまでついて……。さきほどからの騒動を宥め鎮めるかのように、その笑顔は自然で親しみに満ちていた。後部座席の老婦人などは、思わぬ体験にひたすら感激の様子だった。
 一行が通過し交通規制が解除されたあとも、別段我々の車の運転手が追及されたり拘束されたりするようなことはなかった。レンタカー会社の営業所に着いた我々は、それぞれに車を借りて目的地へと向かって散っていった。スターレットを借りた私は、那覇市内をそのまま通過すると、沖縄北西部の奥間ビーチを目指し西海岸沿いの58号線を北上した。

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