時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(32)(2016,08,01)

(福祉活動の奥に垣間見た人間の悲哀)
 当時、東京シャーリングからそう遠くないところに、民間慈善団体アゼリア会の運営する汐崎荘という名の父子寮があった。母子寮と呼ばれる施設は以前から全国各地に多数存在していたが、父子寮なる施設は極めて稀な存在で、当時その種の施設は国内でも汐崎荘を含め2ヵ所のみに限られていた。母子寮という名称と対を成すその呼び名からもわかるように、父子寮は経済的に困窮した父子家庭を収容する施設だった。この父子寮に関しては忘れ難い様々な想い出があるのだが、その話を書き進める前に、学生時代の一時期、私がその施設と関わりを持つようになった経緯を先に述べておくことにしたい。
 実を言うと、私は、大学入学直後からボランティア運動を行っている学生グループに所属し、時間の許す範囲で福祉活動に参加していた。その活動の主な内容は、母子寮、父子寮のほか、親権者のいない幼児や小中学生らを収容する養護施設を対象に各種生活支援を行ったり、そこの子どもたちの学習指導をしたりすることであった。幼少時から厳しい生活環境の中で育ってきた身ゆえに、その種の施設で暮らす子どもたちの苦労のほどが偲ばれもし、ささやかでも彼らのために役に立つことができればと思っていたからであった。
当時、国内のこの種の福祉施設のほとんどは民間慈善団体事業者によって運営されていた。まだ日本が貧しかった60年代のことで、国や地方自治体によるその種の施設への公的支援や監督業務はあってなきがごときものだったから、それらの施設では、現代社会の規範や視点からすれば異常としか言いようのないような事態が多々生じたりもしていた。
 ある養護施設などでは、学校の休日ごとに保護する幼児や小中学生を総動員して近辺の工場などで長時間働かせ、その収益のすべてを施設運営の諸経費に充てていた。明らかに労働基準法違反なのではあったが、それを咎める者など誰もいなかった。また、そこの施設長なる人物は、子どもたちが皇居のある方角に足を向けて寝ることのないように徹底指導していて、その指示に反した者を厳しく叱責したりもしていた。さらに、施設の規則に違反した者などには、足掻き泣き叫ぶ声など一切無視して押し入れや物置に長い間閉じ込め、食事も与えないという厳しい処罰などをも科していた。我われ学生ボランティアはあくまで部外者だったから、その真実のほどを十分確認できたわけではかったが、ほぼ間違いないと思われる噂なども流れたりした。それは、少しばかり精神的に問題を抱えた施設内の女子中学生が妊娠してしまい、やむなく医者に堕胎の処置を依頼した際に、以後同様のことが起こらないように不妊手術をも施してもらったという話であった。
 そんな状況を見かねた活動グループの後輩女子学生2人が、あるとき東京都の民生局に手紙と電話で相談を持ちかけた。だが、なかなか埒があかないというので、結局、自分たちで民生局を訪ね、担当者に状況を直訴したうえで先方の見解を訊ねようということになった。その際彼女らの相談に乗ったこともあって、私もまた行動を共にすることになった。
 幸いなことに、我われに応対してくれた東京都民生局の福島さんという中年の男性は、少しも役人臭さのない真摯な人物であった。彼は、真剣な表情で一通り我われの訴えに耳を傾けてくれたあと、静かな口調でおもむろに話しはじめた。「実は、以前、皆さんからご報告をいただいたあと、先方の施設にそれとなく状況確認のための連絡を入れてみました。すると、電話に出た責任者の方から、どうせ、青くて世間知らずの学生ボランティアあたりが、日々の施設運営の厳しさも知らずに余計な告げ口でもしたんでしょうと、厳しい口調で一蹴されてしまいましてね」
「そんな一方的な……それは紛れもない事実ですのに……」と女子学生の一人が声を上げると、相手はそれを優しく宥め受け止めるような様子で言葉を繋いだ。「私も、皆さんがお話しになっておられることは事実に違いないと思います。施設の子どもたちに外で不法な労働をさせていることも、過剰な体罰問題なども実際その通りなのでしょう。正直なところ、民生局としても方々の施設で起こっているそんな事態を何とかしたいとは考えているのです。でも、この種の施設の8割前後が民間団体によって設立運営されており、またそれらの施設に対し十分な公的補助金も出せない現状では、問題があるからと言って即座に厳しい対策をとることは難しいのです」――苦渋に満ちたその表情からは、一筋縄ではいかない当時の福祉行政の実態とその本質が読み取れるような気がしてならなかった。
「民間運営の養護施設などが立ち行かなくなったら、親のいない多くの子どもたちが路頭に迷うことになってしまいますから、そんな民営施設にも依存せざるをえないのです。ただ、そのためには、子どもたちの食費や光熱費をはじめとする生活費のほか、ケースワーカーや調理担当者などのような施設従業員の最低限の給与の保障もしなければなりません。子どもたちを臨時収入目的の仕事に強制動員することは明らかに違法ではあるのですが、公的予算が不十分な現状では、ある程度目を瞑らざるをえないことも事実なのです」――そう語る福島さんの言葉はどこまでも重く我われの心にのしかかった。
(夜警バイト先近くに汐崎荘が)
 募金活動の許可申請を税務署に提出したあと、あちこちの駅前などで募金活動なども行ったりもしたものだったが、そんな時には一部の大人たちから「お前ら学生のやっていることは偽善に過ぎないんだぞ!」などという辛辣な批判を浴びせかけられるようなこともあった。この歳になった今でこそ、「社会福祉活動に多くの人が参画することは望ましいが、まずはその人なりにできることを無理なくやってもらえればいい」と――換言すれば「偽善であっても少しもかまいはしない」と開き直ることもできる。だが、若さのゆえもあって、当時はそんな指摘に心を痛めることも少なくなかった。
 ともくも、そんな活動に参加していた関係で、幾つかの養護施設や母子寮に出向いていろいろな経験を積んだあと、思うところあって足繁く通うようになったのがほかならぬ父子寮の汐崎荘だったのだ。のちになってたまたま東京シャーリングで夜警のアルバイトすることになったわけだったが、その汐崎荘がその工場からさほど遠くないところにあることを知って、奇縁のほどに驚いたようなわけでもあった。
 父子寮の子どもたちというと、母子寮や養護施設の子どもたちよりはましな生活を送っているのではないかと想像する人が多いかもしれない。母子家庭などとは違い、父子家庭の場合には男親ゆえにそれなりの経済力はありそうだと考えがちだからだ。しかし、私が現実に目にした父子寮の子供たちの姿は、養護施設や母子寮などのそれよりもずっと悲惨で、見るに忍びないものであった。それは父子寮というより「父屍寮」だったからだ。

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