(渡辺淳さんとの交流を回想する――④)
電気やガス器具類の普及と木炭用の原木不足に伴い炭焼き業を断念せざるを得なくなった渡辺さんは大飯郵便局の請負郵便配達人に転じ、以後31年間にわたってその責務をまっとうされた。請負配達人は正規の局員と違って給料も安く、しかも、周辺の谷奥や山奥に散在する家々が配達対象地域であったから、その仕事は想像以上に大変なものだったらしい。大雪の日、近道をしようと横切った畑の一隅で深い肥溜にはまり、足の先から頭のてっぺんまで汚物の中に浸かりながらも、郵便鞄だけは両の手先で頭上に支えて必死に守った逸話などは、気の遠くなるようなご苦労のほんの一端に過ぎなかったようである。だが、そんな厳しい日々の連続のなかにあっても、渡辺さんが絵筆を捨てることはなかった。
「わしゃ、画家なんかやあらしまへん。いまも一介の郵便配達人にすぎまへんのや。郵便配達人がたまたま日記がわりに絵を描いておるいうだけのことですがな。だから、いまの仕事や佐分利谷での日々の生活を離れては、私の絵はあらしまへんのや」――淡々とした響きのそんな渡辺さんの言葉には、不思議なまでの説得力が秘められていた。
63年、35歳のとき、「炭窯と蛾」という作品が日展に入選、渡辺さんの絵はその独特の画風のゆえに多くの画壇関係者らの目を惹くところとなった。だが、自分の本職はあくまで炭焼きや請負郵便配達人であるとする渡辺さんは、その後も自らの信念を守り通し、佐分利谷の一隅でささやかに生きる一生活者としての道を捨てることはなかった。そんな噂を聞いた作家水上勉先生の突然の訪問を受けたのは38歳のときのことだったそうで、それが縁となって水上文学作品の装画や挿絵を次々に手掛けていくようになったのだった。
弾みに弾んだ話が一段落したところで、私は、家の中のいたるところに無造作に積み置かれている作品群を気の向くままに眺めさせてもらった。それらはいずれ劣らぬ素晴らしい作品ばかりであったが、それよりも私が驚いたのはその貴重な作品群の保存状態の酷さであった。剝き出しのまま雑然と重ね置かれている絵の上では猫や鼠どもが毎晩運動会を繰り広げているらしく、いくつかの大きな絵のあちこちには、猫が爪を研いだ痕や鼠の齧った痕、何らかの動物の糞や尿の痕跡と思しきものなどが残っていた。雨漏りによる影響のほうも酷く、かなりの数の絵が変色したり、カビがはえたり、画面を横切るようにして筋状の流痕がはいったりしていた。呆れたことに、渡辺さんご本人は、「まあこれもそれぞれの絵の運命で仕方がないことですわ」と言って笑っておられた。
それにしてもまあ、なんてもったいないことを思いながらアトリエの一隅を見やると、数点の額装された小作品が掛かっているのが目にとまった。各作品に添付されている新聞の切り抜きから、すぐに、それらは水上勉筆の新聞小説「地の乳房」の挿絵原画であることがわかった。もしこんな絵が一枚でも手元にあったらなあと思った瞬間、まるで私の胸の内を見透かしでもしたかのように、「どれでもええから、好きなのをひとつ持って帰ってかまへんから」という渡辺さんの声がした。ここで下手に遠慮をしたら一生悔いが残ると即座に判断した私は、一応は儀礼的な辞退の言葉を吐きながらも、どの絵にしようかと、心密かに選定作業に取り掛かった。そのときいただいて帰った「冬の月」という葦ペン使用の作品は、いまも我が家に大切に飾ってある。
私が寝室としてあてがわれた離れの二階の部屋にも多数の絵が雑然と置かれていた。部屋のすぐそばを流れる谷川の心地よいせせらぎを耳にしながら、貴重な作品群と一緒に一夜を過ごせるなんて願ってもない幸せだった。だが、天井に巣喰うらしいにぎやかな鼠どもとそれらの絵とが共存するのは、長期的には無理なようにも思われた。その当時、この部屋の壁には古いベニヤ板に描かれた一枚の絵が無造作に掛けてあった。埃だらけのその絵は保存状態の悪さも手伝って相当に色褪せ、ベニヤの端々がささくれだち剥げあがっていて、指先で触れたらそこだけポロポロと崩れ落ちてしまいそうだった。何の絵だろうと思ってよく見ると、それは、渡辺さんがまだ若くて体中から鋭い気を発していた修行時代の自画像にほかならなかった。実を言うと、この絵こそ、のちに山椒庵日記で渡辺さん自身がその由来について述べておられる自画像そのものだったのだ。幸い、今ではその絵は他の絵とともに一滴文庫の収蔵庫に大切に保管されているのだが、当時の保存状況は実際そんな具合だったのである。
東京に戻った私は、あらためて、竹人形館で見たランプの絵や佐分利川の絵に感動した旨の手紙を書き送った。するとすぐに、渡辺さんは竹紙に描いた「ランプの詩」という絵を贈ってくださった。むろん、その絵も今は我が家の宝物となっている。
(渡辺淳さんとの旅の想い出)
我われ二人は風変わりな旅を何度となく実践した。その破天荒な想い出の数々は到底この場で語り尽せるようなものではないのだが、なかでも生涯忘れ難い旅がふたつある。そのひとつは、かつて私が朝日新聞のウエッブ上で執筆していた「マセマティック放浪記」の中の「奥の脇道放浪記」においてその顛末を書き述べた東北地方の珍道中である。十日あまりにわたるその車中泊の旅は、目的地など一切定めず成り行き任せだったうえに、二人で意図的に企てた超貧乏旅行でもあった。回転不可能などん詰まりの隧道に入り込んだり、山奥や磯辺で食糧になるものを極力調達したり、海中に落っこちたり、各地の心優しい人々に食べ物や飲み物を恵んでもらったりもしたが、その分、感動的な光景を目にしたり、予想外の様々な発見や体験を重ねたりすることにもなった。
いまひとつは、04年に木田金次郎美術館で開催された「渡辺淳・貝井春治郎展」の記念講演会の講師を依頼され、渡辺さん、貝井さん共々岩内に出向いた際の帰途の旅である。渡辺さんと私とは車で日本海沿いに江差、松前、知内と抜け、函館からフェリーで下北半島大間に渡り、水上先生の「飢餓海峡」を思い浮かべたりしながら仏ヶ浦や恐山を巡った。そして、陸奥市に差し掛かったあたりで、突然、水上先生をお見舞いしようということになり、青森から、当時先生がお住まいだった長野県北御牧村(現東御市)まで一気に南下した。介護者付き車椅子姿の先生はもう言葉も発せられない状況にあられたが、我われの話はしっかり理解されておられる様子で、先を促すような所作を何度もなさったものだった。別れ際に3人でしっかり握手を交わしたが、あの気丈な先生が溢れるほどの涙を目に浮かべながら固く手を握り返してくださったことが忘れられない。そしてそれが先生との今生の別れとなった。それから四ヶ月後のこと、先生は天上界へと旅立たれたからである。それから十三年を経た今、渡辺さんは水上先生と浄土で再会なさっておられることだろう。