時流遡航

第28回 東日本大震災の深層を見つめて(8)(2011,12,15)

釜石市から大船戸市へと向かう途中でやはり被害甚大な三陸町を通過したが、その三陸町の北部にある吉浜集落だけは例外だった。大津波に襲われても不思議でない形状の吉浜湾に面しているにも拘らず、何故かこの集落の民家のみは被災が皆無に近いようであった。実際にこの集落内を訪ね回って判明したことだが、どの民家もが海岸線からかなり離れた高台に建っており、防潮堤や防潮林の背後、さらには吉浜川近くに広がる平地には田畑や漁港があるだけで、その一帯に常住者はいなかったようなのだ。南リアス線の吉浜駅は集落地の最も低い場所に位置にしており、駅よりも海側には、相当に広いスペースがあるにも拘らず人家らしいものは全く見当たらなかった。おそらくは、過去の津波の被害を教訓にして現在のような集落形成がなされたものと思われる。そこに至るまでの経過は不明だが、今後の津波対策としてこの吉浜の事例は何かしらの参考にはなるのかもしれない。

三陸町・大船戸・陸前高田へ

吉浜を経て越喜来湾に面する三陸町の中心部に入ると、そこで国道45号線から分岐する細い地方道に入り、半島部沿岸を大きく廻るかたちで大船戸を目指した。甫嶺、小石浜、白浜と南リアス線に沿う各駅周辺を通過したが、線路ごと跡形もなく破壊され尽くされた甫嶺駅周辺の光景が印象的だった。ただ、大船戸湾に面する半島西部を縫う道路沿いの各小集落は元々高所に位置するためかいずれも無事で、ずらりと建ち並ぶ和風の大きく立派な家々の光景が、常々海の幸に支えられてきたこの一帯の生活の豊かさを物語っていた。

大船戸市街に入ると、またもや生々しい津波の痕跡が目に飛び込んできた。東向きの湾口は狭く、しかも途中で大きく曲がって北奥へとのびる大船戸湾の細長い地形からすると、被害は少なそうにも思われたが、実際には大船戸の全壊住宅数は3630棟、死者・行方不明者数は470名にのぼった。被災住宅数の割に死者・行方不明者数が少なかったのは、比較的狭い海沿い平地のすぐ背後が高台になっていて、迅速な避難が可能だったせいなのかもしれない。ただ、港周辺をはじめとする市街中心部は壊滅状態で、しかも湾沿いの地域にはひどい地盤沈下のために広範囲にわたって海水が浸入しているので、曲がりなりにもこの地が再興し、商漁港としての活況を取り戻すには、少なくとも10年単位の時間が必要ではなかろうかと思われた。なかでも各種水産加工施設や繁栄を誇った市場の損壊は致命的と言うほかなかった。大船戸では震災直後から被災地住民の高台移転の計画が持ち上がったというが、候補地に貝塚遺跡等があったり、農地を宅地に転用するには各種法的規制があってその対応処理が容易ではなかったりし、思うようには話が進んでいないという。また、御多分に漏れず、従来の場所に戻りたいという被災者の声も少なくないようである。

市街部全域がほぼ壊滅した陸前高田市の惨状には茫然自失するほかはなかった。住宅3160棟が全壊し、死者・行方不明者は約2200名に及んだ。損壊した住宅数そのものは気仙沼より500棟ほど少なかったにもかかわらず、死者・行方不明者数は気仙沼のそれを遥かに上回った。市街中心部やそれを取り巻く周辺部のほとんどが。高度がほぼ一定の広く奥行きのある平地部に位置しているため、限られた時間内に市街地から相当離れたところにある高台へと避難するのは不可能に近かったからだろう。我々も実際に市街の中心部だったと思しきあたりに降り立って、時間を計りながら徒歩で逃げる場合の想定ルートを実験的に試行錯誤してみたが、どの方角に進んでも遠くにある安全な高台地に限られた時間内で退避するのは到底不可能な感じだった。

巨大な潮力によって完全破壊され海中に没した有名な高田の松原も、今回ばかりは防潮林としては全く役立たなかったばかりか、臨海地域住民が視覚的に大津波の到来を察知する妨げになった観さえある。陸前高田市街の海岸寄り一帯を表示するカーナビの地図を拡大して慎重に通行路をチェックし、何度も路上の瓦礫を取り除きながらゆっくりと走行を試みたが、存在するはずの前方の道路が突然海中に没し、途中から消滅してしまっている有り様だった。高田の松原の後背地にあたる相当に広い地域が地盤沈下を起こし水没してしまったわけで、国土地理院などによる地図の大幅修正は必定のようだった。水没した地域の上空を半ば静止浮揚する感じで長時間飛行していたヘリコプターも、何かその種の情報を収集中だったのかもしれない。

高田の一本松も風前の灯

国道45号沿いに立つ、頑強なブロック造りの荘重な二階建て教会は、遠目には無傷なように映りはしたが、近づいて見るとその内部はまるで原型を留めていなかった。津波の際には一対の尖塔を含め、全体が水没したに違いない。国道を挟んだその反対側近くには2棟の5階建て高層集合住宅が倒壊せずに残っていたが、よく見ると4階以下の部屋はすべて破壊されて素通し状態になっており、5階部だけが辛うじて破壊を免れたもののようだった。それは、5階のベランダの高さまで津波が達した何よりの証であった。

海岸線からかなり離れたところにある高田市役所一帯も建物自体は辛うじて残っているものの、事実上は壊滅状態だった。周辺には赤色の回転灯を点けた警察車両が何台もいて、市役所の建物に一般人が近づかないよう警戒している様子だったが、何か重要な資料や物品が持ち出されるのを防ぐためであったのだろうか。警察車両のほかに、被災地支援のために派遣された自衛隊の車両も多数見受けられたが、状況が状況だけに、悪条件のもとで気の遠くなるような作業に取り組む隊員らの苦労のほどが偲ばれてならなかった。

大津波に耐えて唯一残った「陸前高田の一本松」のことはテレビなどでもセンセーショナルに報道されたが、その一本松に近づくには車を降り、立ち入り禁止の警告を横目に、荒れた湿地帯を縫ってしばし歩かなければならなかった。どこか頼りなげな、ひょろりとした姿のその松は「潮騒橋」という橋のたもとに立っていて、その根の部分は簡易柵で囲われ、幹の部分には保護用の緑のテープと薄茶色のテープとが巻き付けてあった。ただ、かなり高い位置にあるその枝葉の一部は海水に浸かったために既に赤茶け枯れかかってしまっており、大津波に耐え抜いた唯一無二の象徴的存在として後世まで残し続けるのは、正直なところ無理なように思われてならなかった。周辺が完全に地盤沈下し、浸入した海水に取り巻かれているのも甚だ問題だった。実は、この松から少し離れたところにも一本だけ松が残っていたが、こちらのほうは幹の下部が完全に海水中に没しており、もう全体がすっかり枯れてしまっていた。

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