その当時、ペンシルバニア州を流れるオハイオ川沿いのシッピングポートに設置された実験炉では、間近に迫った発電用原子炉の実稼働を睨んで日々休みなく先導的試行が進められていた。そして、アルゴンヌ原子炉技術学校に派遣された初期の研修生たちは、それらの実験炉による研究についても知見を深めながら、将来に備えた各種の原発技術関連情報を集めることができた。このシッピングポートでは、それからほどなく加圧水型原子炉による初の本格的な原子力発電所の操業が開始されたのだが、現在ではその原子炉は廃炉となって原子炉建屋共々解体撤去され、跡地は更地となっている。
その頃のシッピングポートの実験炉では、発電所用原子炉のほかに原子力潜水艦や原子力航空母艦用の原子炉の研究も進められており、初期の研修生たちには原潜で用いる炉や、放射線遮蔽隔壁を持つ原潜乗務員室の雛形などの見学も許された。原子力潜水艦や原子力空母などの場合には、一度進水したら廃艦時まで燃料の交換や補給の必要がないようにするため、90%以上のもの高濃縮ウランが用いられるようになっていたという。
その一方で、民間の原子力発電所などにおいでは、原子炉の安全な保守管理の問題などを考慮して、5%程度の低濃縮ウランが用いられることになっていた。なお、日本への原子炉導入に際しては、先々において日本が独自の濃縮技術を開発した場合でも。ウランの濃縮度は20%以下に留めるようにするとの規制条項を含む日米原子力協定が締結された。その背景に、将来的な日本の核武装を懸念する米国政府側の政治的思惑が働いていたことは言うまでもない。
なぜ安全神話は生まれたのか
アルゴンヌ原子炉学校で学んだ研修生らは、帰国後、茨城県東海村の日本原子力研究所における本格的な原子炉研究を主導し、日本初の実験用原子炉JRR1の建設・稼働において重要な役割を果たした。当然のことだが、日本原子力研究所によって行われた国内初の原子炉JRR1の運転は当初から手探り状態であった。民間企業の三菱、東芝、日立などからそのプロジェクトに派遣された技術者らの原子炉についての知識や経験は未熟だったから、小さな事故や不備は日常的に起こり、それらの処理に臨機応変に立ち向かわなければならなかった。パンドラの箱を恐る恐る開け、ちょっと覗いてはすぐに蓋を閉じるというプロセスが延々と繰り返されたわけである。ただ、研究者や技術者らは自分自身の知識不足や原子炉の危険性を十分認識したうえで慎重な行動をとっていたから、安全神話や安全信仰に浸りきり警戒心を無くしてしまっていた昨今の状況よりはずっとましだったのかもしれない。実際に実験炉を運転してみると、当初予想されていた以上に扱いづらいものであることが判明し、一部の研究者や技術者の間には、これだけ複雑なシステムを稼動させて電力を供給し利益をあげるのは無理だという声さえもあがっていたらしい。この時点ではむしろ東京電力などの電力会社サイドのほうが原発導入に慎重で、原子炉建設で莫大な利益を見込める関連メーカーサイドのほうがその推進に積極的であったという。実際、国内各地におけるその後の原子炉建設やその保守運営業務を通して、三菱、東芝、日立などの大手メーカーは経済的に莫大な利益を得るところとなり、大きな繁栄を遂げたのだった。
他方、そんな日本原子力研究所の慎重な初期対応に遅速感を抱いた正力松太郎国務大臣(読売新聞社主)らの働きかけに呼応して、国内での原子力発電所の建設・稼働に対する政財界の期待は一気に高まった。そして、ジェネラルエレクトリック社の沸騰水型原子炉やウエスティングハウス社の加圧水型原子炉が急速に国内各地へと導入建設される展開となった。民間8割、国2割の資本構成によって設立された日本原電が、イギリスよりコルダ―ホール型原子炉を導入、東海原発建設に踏み切ったのもそのような流れに準じたからであった。当時の研究者や技術者の懺悔含みの証言によると、政財界や社会の大多数の風潮は、もっぱら経済的発展のみを睨んだ「進めや進め、いざ進め!」の大号令に支配されてしまっており、すべてはその流れに沿って決定され、安全第一を訴える慎重な専門家の声など掻き消されてしまう状況だったという。政財界をはじめとする大多数の人々の原発に対する認識は、「火力」が「原子力」に代わったに過ぎないという程度のものであったようだ。原子力がどのようなものであるかについての深い認識など、一般国民にはむろん、政財界やメディア界の指導者らにもほとんど無かったと言ってよい。そして、そんな安易な思潮がいつしか現実とはかけ離れた安全神話や安全信仰を生み出し、今日に至ってしまったのだった。
メディア界までが原発推進に
日本原子力研究所の実験炉JRR1の実状に鑑みた当時の専門研究者らの意見を重視して、東京電力などの電力会社が、今とは逆に原発導入にむしろ慎重な態度をとっていたことについては既に述べた通りである。だが、経済発展を優先する日本政府や経団連、大手メディアなどのほうは積極的に原発推進へと動いた。現在においても依然としてそのような傾向が見られるが、我が国においては科学者や技術者の社会的な発言力が極めて弱く、また、科学者や技術者は政治的に中立を保ち、専門研究とは直接関係のない政治経済の問題については発言を慎むべきだとする風潮が根強い。そのような社会的背景が結果的に大きなマイナス要因として作用したことは否めないだろう。
いまでこそ大手新聞各紙やテレビなどのマスメディアもこぞって原発批判、電力会社批判に転じているが、初期の頃には大手メディアなどよりも電力会社側のほうが原発の建設や稼働に自制的だったという事実を我々国民はどう受け止めるべきなのであろうか。国内電力各社が原発を一斉に稼働させるようになり、原発の稼働率や原発への電力依存度が高まった一時期などにおいては、新聞社やテレビ局は電力関連会社から莫大な宣伝広告料収入を得ていたという事実などもある。また、それゆえに原発批判を控えめにしたという当時の裏事情なども聞こえてくる。原発を取り巻いてきた諸状況は決して単純なものではない。
一部の保守系政治家などは、原発を保持することの副次的意義として、濃縮ウランやウラン燃焼炉の副産物のプルトニウムが潜在的核抑止力となり得るなどとも主張してきた。だが、今更、日本が核爆弾の独自開発に踏み切ることによって近隣核保有国の暴走を抑止できると思うなど非現実極まりない。日本の何処で誰がどんな工程で核爆弾や核ミサイルを開発配備するのかを想定してみるだけで、それが暴論であることは明白だ。いくら日本の潜在技術が優秀でも核爆弾や核ミサイルの即時開発などは不可能なのだ。