時流遡航

《時流遡航》~大学乱立と学力低下の背景(4)~(2013,03,01)

私立大学等経常補助金(私学助成金)は施設費や施設維持管理費には使えないことになっている。したがって、この種の助成金のみを頼みに新・増設された私大などは、国際関係、福祉・保健関係、ジャーナリズム関係などのような社会学系学部学科しかないものがほとんどで、施設費のかかる理工系や医歯薬系の学部を持つものは皆無に近い。また、大学の新・増設には当然それなりの敷地の確保が必要となるのだが、そのプロセスを通じて、大土地所有者らに相続税その他の各種租税を軽減する便法を提供する役割をも果たしてきている。その意味では財務省にも責任の一端はあるのだが、それらの私大が将来の天下り先となるとあれば、黙って見過ごすに越したことはないと言うことにもなろう。

(実務家教員増大による弊害も)

博士課程の拡充に伴い博士号の取得者数は飛躍的に増加したが、そのことがもたらす負の影響もあって、全体的に見た場合、以前に比べ、近年、若手研究者の質は大きく低下してきたと言われている。昔は博士の学位取得者は専攻する学術分野の優れたスペシャリストと見なされたものであるだが、ここ四半世紀においては、博士号取得は学術研究生活のスタートラインに立つための基本的条件程度にしか評価されなくなってきた。国際学会などで世界各国の研究者と同席し学術的交流をはかるには博士号の取得が必要最小限の条件となっている。国内に多い修士の学位なるものは日本独自のものであって、昨今の国際的な学術会議や学術研究の場においてはそんな称号はほとんど通用しないのだ。

ところが、最近は、そんな評価水準にある博士論文はおろか、修士論文や、ことによったらまともな学士論文でさえも書いたことのないような「実務家大学教員」が少なからず存在するようになってきた。自分の社会経験を面白可笑しく、そして得意げに話すだけで講義が成り立ってしまう大学や大学院とはいったい何なのであろうか。ちゃんとした研究論文の執筆経験のない教員に学生や院生の論文指導などできるわけもないから、そんな現場の状況は推して知るべしというほかない。

さらにまた、そんな実務家教員跋扈の煽りをもろに食らい、博士号取得後適切な職にも就けぬまま窮状に追い込まれているポスドクたちが激増している。全般的にいくら質が下がったとは言っても、博士の学位を取得するにはそれなりの辛苦の伴う研究の累積と一定レベルの学術成果が要求される。無論、本質的な能力のほうも相当に高くなければならない。どう控え目に見ても、今日巷に溢れ返るメディア上がりやタレント上がりの教員の大半などよりは、個々の専門分野において力があると考えてよい。だが、そんなポスドクたちの多くが、私学助成金を吸い寄せながらあだ花のごとく咲き誇る新設大にすら職を求めることができない。また、博士課程修了者に対する偏見が強く、旧態然たる体質をもつ国内企業に就職することも難しい。そんな状況は東大・京大をはじめとする著名大学出身のポスドクらにとっても変わりがない。多額の国費を投入して育成した挙句の果てにこの有り様だから、あまりにも酷い話である。しかも、長年奨学金の支給を受けながら博士課程を修了したような者の場合には、1千万円前後の負債をもつケースも少なくない。

本来あるべき職業に就けないポスドクたちは、塾教師をやったり、運転手をやったり、各種の日雇いアルバイトに従事したりながら当座の糊口を凌ぐことになるが、やがて生活が破綻し、学術研究に戻るなど不可能な事態に陥ってしまう。実際、東大のポスドクなどを調べてみても、現在の状況が全く把握できない者が多数いるという。優れた人材と多額な国費の損失も甚だしいかぎりだと言えるのだが、それが我が国の教育界の現状なのである。主要先進国の中で博士号取得者がこのような境遇に置かれているのは日本だけのことのようで、どう考えてみてもこの状態は異常である。既に述べたように、日本の場合には「大学」という概念自体に明確な定義がないために、このような不可解な状況が生じているわけなので、この際、大学のあるべき姿を今一度考え直してみるべきなのだろう。

(メディア系教員の意外な役割)

新聞・雑誌の編集記者、有名コメンテータ、テレビ局勤務者、各種芸能人などがこぞって私立大学の教授、准教授、講師などへと転職したり、そうでなくてもその種の教員職を兼務したりしている。いったいメディア関係者と私大との相互依存関係の裏には何があるのだろう。私大の教員となった著名なメディア人らは、当該大学にしてみれば、またとない広告塔の役割を果たしてくれる有難い存在なのだ。あまり深くはものを考えない若者たちが、メディア人としての知名度の高さのみに惹かれ、その人物の学識や教育力にはまるで関係なく、物見遊山のお客よろしく多数集まってくる。万事において大衆化路線が進む今日のことゆえ、世間におけるその大学の信用度も高まる。講義の内容やその学術的水準など、大学経営者や在籍学生にしてみればどうでもいいことなのだ。

いっぽうのメディア関係者にしてみても、仕事の幅の広がる兼職は有難いことだし、たとえ現職を離れて専任教員になったとしても、それなりの給与を保証され、長期にわたる安定雇用に預かることができるから、都合のよいことこのうえない。さらにまた、所属先がどんな大学であったにしろ、教授、准教授、講師といった肩書をもらえれば、社会的な体裁もよいし、著述活動や講演活動、テレビ・ラジオ出演などを行う際にも面目が立つ。それに加えて、新聞社をはじめとする各種メディアは、関係する私大の広告を扱うことによって少なからぬ広告費を得ることもできる。

だが、このような私大とメディア出身教員との関係にはもうひとつ重要かつ巧妙きわまりない裏がある。多くの私大、とくに新設私大には文科省をはじめとする各省庁の役人が、教職員としてメディア関係者以上に数多く天下り、事実上それらの大学を牛耳ってさえいる。だが、彼らは表の顔となっているメディア関係教員の陰に隠れて、その実態はほとんど明らかにはなっていない。そんな私大の実状や問題点を批判しようにも、メディア人自体が取り込まれ、その片棒を担がされているわけだから、ひたすら沈黙を守り通すか、当たり障りない発言をしてお茶を濁すほかはない。なんとも巧妙な仕組みになっているというわけなのだ。新聞・雑誌・テレビ関係者などが定年間近になると、文科省を介して大学教員職を世話してもらうことなども頻繁に起こっている。かくして大学の乱立や質の低下と、それに伴う国費乱用はどこまでも進んでいく。大学という概念をこの際一掃解体し、国費投下に値する真に優れた研究・教育組織を再構築する必要があるのではなかろうか。

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