時流遡航

《時流遡航》エリザベス女王戴冠式と皇太子訪英(10)(2015,01,15)

 それでも藤倉修一は必死になって実況録音放送を続けようと努めはした。だが、「ええ……このあといよいよ戴冠の儀式に移るはずなのですが……ええ……まだ、その前になにかが……(絶句)……カンタベリー大僧正が女王の頭上に授ける王冠のほうの準備も整えられているはずなのですが……(絶句)……あのう……(絶句)・・・・・・」といった情けない有り様になってしまい、NHK屈指のベテランアナウンサーの身も最早形無しというほかなかった。そして、もたもたしているうちに30分の貴重な録音放送時間がタイムアウトしてしまったのである。さらに悪いことには、式典の進行が予定よりも遅れてしまったために、クライマックスとなるべき肝心の「戴冠の儀」の部分の放送が収録できなくなり、悔やんでも悔やみきれない散々な結果に終わってしまったのだった。
 ああ、藤倉武蔵敗れたり――思いもしなかった無様な結果を前にしてへとへとに疲れ果てた藤倉は、半ベソをかきながら夕刻自室へと戻ってきた。なんのために遥々英国まで派遣されてきたのかという思いばかりが募るうえに、NHKに対しても全く申し訳が立たないとあっては、彼が落ち込むのも無理ないことであった。するとそこへ、オックスフォード・ストリートに面するデパート内の観覧席で女王のパレードの様子を収録していた徳川夢声がデンスケ(録音機)を担いで戻ってきた。すっかり打ちひしがれてしまっている藤倉は、TBSの期待を一身に背負う徳川小次郎の凱旋の姿を正視するのが怖くもあった。
 戻ってきた徳川夢声の様子をさりげなく窺うと、予想に反して彼のほうもいつになくしょんぼりとした感じだった。そこで藤倉は、思いきって彼にパレード実況収録の出来栄えを訊ねてみることにした。 
「まずはお疲れさまでした。6月というのに、ひどく寒い荒れ模様の天気にはなるし、なにやかやと規制があって思うように動きまわることもできない有り様で、お互いほんとうに大変でしたね。夢声さんもさすがにお疲れでしょう?」
「いやはや……もうすっかり参ってしまいましたよ」
「実を言うと、私なんか、散々な出来だったんですよ。それに比べれば夢声さんのほうは、それなりにうまくいったんじゃないですか。パレードの実況収録は如何でしたか?」
 すると、夢声はかねての威勢のよさはどこへやら、蚊のなくような小声で答えてきた。
「いやはや、それが、なんとも大変な不出来でしてねえ……」
「それはまた意外な……夢声さんのような方でもそんなことがおありなんですかねえ?」
 相手の不出来を願うのはけっして潔いことではなかったが、ともすると心の片隅にそんな思いが湧き上がりかけるほどにこの時の藤倉は落ち込んでいた。だから、不出来だったという相手の言葉を正直なところいささかの救いに感じもした。
「不出来も不出来……お恥ずかしいかぎりの出来栄えでしてね……」
「私なんか、不出来なんていうそんなレベルのものじゃなかったんですよ。ただもう踏んだり蹴ったりの有り様でして……最後はシドロモドロだったんですよ」
「でも、藤倉さんは、ウエストミンスター寺院前のBBC特設放送席での実況収録だったんでしょう?」
「それなんですがね、実況放送収録とは名ばかりで、その実はテレビを見ながらの実感放送収録というやつでして……。テレビの画像はめまぐるしく切り換わってしまいまして、戴冠式場の寺院内ではいったい何がどう進行しているのか、もうさっぱり分かりませんでした。おかげで、支離滅裂な実況収録になってしまいましたよ」
「なるほど、実感放送の収録ですか……。私のほうも、結果的には手探り放送、いや目探り放送になってしまったんですけどね」
 徳川夢声はそこまで言うと、自分の宿泊しているホテルには戻らず、藤倉の部屋の奥にあるデスクに向かい、そこですぐに実況収録してきたテープの試聴と編集作業を始めたのだった。いっぽうの藤倉は、その様子を自室のすこし離れたところで眺めやりながら、さりげなく聞き耳を立てた。巌流島の決闘ならぬロンドン市中での実況収録の決闘で「我敗れたり」と悟った藤倉武蔵にすれば、せめて相手の徳川小次郎の剣捌きくらいは自らの目と耳で確かめておきたいという気分ではあった。
(徳川小次郎の出来や如何に?)
 テープのリールがゆっくりと回りだし、再生音が流れ始めた。耳をそばだて神経を集中すると、かつては無声映画の名活弁士として鳴らした徳川夢声ならではの名調子の話し声が聞こえてきた。ぶっつけ本番とはいってみても、そこはその時代に国内では右に出る者のなかった話術の持ち主のこととあって、まさに闊達自在、天衣無縫な話しぶりだった。
 藤倉武蔵の盗み聴きなどものともしないかのように、やがて徳川小次郎の再生音声の内容がクライマックスの部分に差しかかった。
「さあ、みなさん、いよいよ金色燦然たる女王様のお馬車がやってまいりました。びっしりと沿道を埋める大観衆から一斉に湧き上がる大歓声!……イギリス国民の誰もがこの日を、そしてこのパレードの時を待ちに待っていたのです。いま、そのお馬車が私のいる放送席の真ん前を通り過ぎていくところでございます」
 その録音を聴いた藤倉修一は、ちょっと間をおいたあと、あれっ、待てよ?……と首を傾げた。徳川夢声は、実況録音のため、オックスフォード・ストリートに面するデパート、セルフリッジスのショーウンドウに設けられた特別観覧席に陣取っていたはずだった。そうだとすると、そこのショウ・ウィンドウのガラスはとても厚く、防音もしっかりしているから、たとえ相当大きな騒音であったとしても外の音が聞こえてくるわけはなかった。また、この日、外は冷たい風雨の吹きつける荒れ模様の天候だったのだから、観衆が多かったとはいえ、そんな状況のもとで耳をつんざくような大歓呼が起こったかどうかもいささか疑問ではあった。そこで、そのあとも意識を集中し、しっかりと盗み聴きを続けていたのだが、徳川夢声の耳に聞こえたはずの群衆の大歓声がその録音テープには全然収録されてはいないのだった。どうやら、「一斉に湧き上がる大歓声」なるものは、徳川夢声の幻聴か、さもなければ、彼一流のレトリックの産物であるらしかった。
 それでも、そこまではまだよかった。だが、そのあとに続く録音を盗み聴いた藤倉はあまりの滑稽さに思わず吹き出しそうになった。

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