時流遡航

第34回 東日本大震災の深層を見つめて(14)(2012,03,15)

東日本大震災が起こってからまる一年が経った。表面的には震災直後の一連の悲惨な事態も徐々に収まってきているように思われるが、現実にはごく一部で復興作業が始まったばかりで、全体的に見ると完全復興までにはなお気の遠くなりそうな道程が待ち受けている。被害の規模がこれほどに大きくなったのは、東日本沿岸各地を襲った津波のエネルギーが、従来の「津波」という概念を一変するほどに凄まじいものであったからにほかならない。そして、その事実を何よりもよく物語っているのが、宮城県南部から福島県東部に至る太平洋沿岸地域の予想だにしていなかった被災状況なのである。仙台市東部の若林地区から名取、岩沼、亘理、山元の宮城県内各地を経て福島県の新地、相馬、南相馬、浪江、双葉、楢葉、そして磐城に至る150km以上の海岸線は、岩手や宮城北部のリアス式海岸のそれとは異なり、長くて緩やかな曲線を描いている。リアス式海岸地域に見るような狭くて細長い入江を意味するいわゆる「津」などではないばかりか、より大きな入江を表す「湾」ですらない。だが、それにもかかわらず、その海岸線全域の集落は高さ10m~20mもの巨大海浪に呑み込まれ、瞬時にして破壊され尽くしてしまったのだった。

宮城県南部沿岸域の被災状況

仙台空港のある名取・岩沼両市周辺も、阿武隈川を挟んでそれより南に位置する亘理町や山元町においても、海岸線から1~2kmくらいの範囲にある平地一帯は全域にわたって甚大な損害を被っていた。宮城県南部の沿海地域は広々とした水田や畑地になっており、野菜類を栽培する大規模ハウスなども多数存在していたのだが、それらはみな跡形もないほどに破壊し尽くされていた。被災した農耕地全域にわたる各種瓦礫類の散乱ぶりは尋常ではなく、ハウス栽培用のものと思しき金属製やプラスティック製のパイプ類などが至るところに散らばったり突き刺さったりもしていた。この地域においては津波による人命の喪失こそ比較的少なくて済んだものの、農地の被った損害は計り知れず、海水の浸入に起因する田畑の塩害を除去するだけでも長い時間と膨大な費用・労力が必要だろうと思われた。

山元町の山下駅に近い牛橋公園付近まで南下した時点で、我われは直接太平洋に面する海辺に出てみようと考えた。最も海寄りの地域を縫って福島県の相馬港まで続く細い地方道は通行止めになっていたが、津波被災のため無人になった近くの小集落の瓦礫だらけの間道を抜けると、なぜかその地方道に入ることができた。そこで、これ幸いと慎重に走行し、海岸に近い場所に駐車してあとは徒歩で海辺へと向かった。かつての松林が一本残らず倒れ重なって行く手を塞ぐ中を、ある時は倒木群の上を乗り越えならが、ある時はそれらの下を這い潜りながら、またある時は一面に鋭い松葉のついた細枝の茂みを掻き分けながら、ともかくもひたすら前進した。そしてようやく砂地の浜辺が見えるところに出ると、眼前に広がったのは思いもよらぬ光景だった。

重機でなければ持ち上がりそうもない巨大なコンクリートブロックが、バラバラの状態で松林の残骸とでも言うべき倒木群を押し潰すようにして無数に転がり散らばっていた。そして、もっと海辺寄りの砂地にも同様のコンクリートブロックが一面に散乱していた。さらに前方の様子を眺めやると、高さ6~7mはあろうかと思われる台形型断面構造の長大な防潮堤が根こそぎ破壊流失され、そのごく一部だけが寸断されたかたちで辛うじて姿を留めていた。バラバラになったまま一面に散乱しているコンクリート製の巨大ブロックは、津波で破壊された防潮堤の残骸だったのだ。不規則に折り重なる周辺のテトラポッドやブロック群を乗り越え一部だけがなんとか残ったその堤防上に昇ると、一目で全体の状況が見て取れた。長さ20mほどにわたる部分のみが残るその堤防の両端は崩壊流失し、直接それに続いていたはずの堤防部はどこにも見当たらなかった。ただ、100~150mほど離れたところに同じような防潮堤の一部が遠望されたから、もとはそれと繋がっていたのだろう。

凄まじいとしか言いようのない津波の破壊力に茫然とするばかりだったが、いまひとつ目を惹かれたのは、残った防潮堤の海側傾斜面はほとんと破壊されていないのに、陸側の斜面は深く抉り取られ、堤防上の水平部分も陸側のほうがひび割れたり陥没したりしていることだった。既に述べてきたように、想像以上に大きな引き波の作用と、それを考慮せずに設計された堤防の構造上の欠陥による結果であることは明白だった。

テトラポッドが霰のように

福島県境を越え、新地町や相馬市の相馬港周辺を経て南相馬市の海岸沿い地域に入ると一瞬我が目を疑うような光景が出現した。なんと、海岸線から1km以上も離れたところある広大な農耕地一面に巨大なテトラポッドがまるで霰を撒き散らしでもしたかのように無数に転がり広がっていたのである。1個数トンもある消波用のテトラポッド群が海岸からかなり離れたそんなところまで運ばれてきたなど到底信じ難いことだった。それは、今回の津波のエネルギーが如何に桁外れのものであったかを雄弁に物語るとともに、その破壊力が如何に凄まじいものであったかを立証するものでもあったと言ってよい。

想像を絶する数のそれらテトラポッド群は、消波用ブロックとして役立つどころか津波の破壊力を増福する凶器そのものなり、一帯の集落や農耕地に襲いかかったのだ。意外なことに、我われが目にしたその光景は何故かいまだに新聞やTVなどでは報道されていない。その理由はいまひとつ明らかではないが、かなり辺鄙な場所であるうえに、福島第一原発から20kmくらいしか離れていない場所であったことにもよるのかもしれない。その一帯の写真を何枚も撮ってから同地をあとにしたのだが、なんとも衝撃的な体験であった。

いったん国道6号線に出て、南相馬市の原町や小高地区に入り、行けるところまで行こうと浪江町方面へと南下したが、原発から14kmほど離れたあたりで警察官に制止され、それ以上は進めなくなった。もう宵闇も迫る時刻だったので、やむなく原町、飯館、川俣、飯野、安達の各地区を経由して二本松へと抜ける迂回路をとることにしたが、途中のどの集落も明かりが消えていて、人のいる気配はほとんど感じられず、なんとも異様な雰囲気であった。ガソリンスタンドだけは営業しているところがあったが、コンビニエンスストも一般の商店やレストランも皆シャッターを下ろしてしまっていた。通過した各集落は福島第一原発の北西部20~30km圏内の特別警戒地域に属していたから、それは当然のことだったのだろう。その時の状況からしてみると、当時の鉢呂大臣の「死の町」発言が的外れであったなどとは到底考えられないのであった。

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