時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(10)(2017,06,15)

(ドナルド・キーンさんと日本文学)
 私がドナルド・キーンさんの日本文学研究関連の文献に接したのは、奥の細道文学賞受賞時よりもずっと以前のことである。ある時たまたま、「MEETIG WITH JAPAN」というキーンさん執筆の日本に関する英語の著書を拝見し、日本文学や日本文化に対するその造詣の深さに感銘したのがそもそもの事の始まりだった。
 旧日本海軍による真珠湾攻撃の直後、コロンビア大学在籍中のキーンさんは、志願してカリフォルニア州バークレイに設けられた米海軍日本語学校に入校し、そこで50人ほどの仲間とともに猛烈な日本語教育の特別訓練を受けることになった。4・5カ月で全員が日本語の新聞を自由に読めるようになるほどに、きわめて厳しく実践的な日本語教育だったという。太平洋戦争が勃発するとすぐに、先々の戦局の展開や終戦後における日米間の文化的あるいは行政的課題への対応処理をも睨んで、米国政府は海軍にこの日本語学校を特設し、日本語と日本文化に通じる優秀な人材の育成に乗り出したのだった。鬼畜米英を合言葉に、一切の英語の使用を禁止した当時の日本と比べると、大局観の違いには雲泥の差があったのだ。その時点で既に日本の敗戦は決定的であったと言ってもよいだろう。
 この米海軍日本語学校からは、のちに日本文化の優れた研究者、紹介者として世界的に名を馳せる知日派の若者が数多く巣立っていった。キーンさんのほか、川端康成や三島由起夫の翻訳者として名高いエドワード・サイデンステッカー、ハーバード大教授で駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワー、戦後まもなく様々な事情から歌舞伎をはじめとする日本の各種伝統芸能の存続が危ぶまれたとき、文字通り力の限りを尽くしてそれらを死守したフォビオン・バウワーズなどは、皆この日本語学校の出身者だったのである。
 米海軍日本語学校での研修を終えたキーンさんは海軍士官としてハワイ島に渡り、そこからキスカ島、アッツ島などの激戦地へと派遣され、米軍日本語通訳兼翻訳官という特殊任務に就くことになった。そしてそこで、玉砕したり敗走したりした日本兵の残した日記類や手紙類を読み込んだり、捕虜となった日本兵との対話を重ねたりしていくうちに、日米両国間の戦闘の是非はともかく、個々の人間としての日本人の真摯さや思いの深さに感銘を覚えるようになっていったのだという。また、そんな経験を通して、キーンさんの日本文化に対する関心は、日々高まっていったらしい。捕虜収容所で出合ったある日本兵とも、終戦後には親交を持つようになったとも述べておられる。その時点で既に草書体や行書体の文字を読み取れるようになっていたというのだから、日本文学に対するその情熱のほどには並々ならぬものがあったに違いない。
 キーンさんは沖縄戦線にも足跡を刻み、拡声器を手にして、ガマに立て籠もる沖縄の人々の救出説得工作にも臨んだのだそうである。中国の青島で終戦を迎えたキーンさんは、所属先の海軍本部のあるハワイへの即時帰還を命じられたが、敢えて理由をつけ、ごく短期間ではあったものの、憧れの日本へと立ち寄った。そして、日光東照宮を訪ねたり、捕虜となっているある日本兵の家族の元へ出向いて、その無事を伝えたりもした。そしてそのあと、横須賀から房総半島木更津を経由して母国へと向かう米艦に乗り帰国の途に着いた。早朝、艦上から朝焼けに染まる美しい富士の遠景を仰ぎ見ながら、必ずや日本に戻ってくると固く心に誓ったのだとその手記には述べ綴られている。
(遠回りしたすえに日本再訪へ)
 海軍除隊後いったんコロンビア大学に戻ったキーンさんは、大学院で角田柳作の指導を受けながら松尾芭蕉の作品をはじめとする日本文学古典の研究に着手し、47年には、のちの本格的な「奥の細道」翻訳書の刊行に繋がる同作品の試訳作業にも専念した。そして、コロンビア大学からハーバード大学に移ったあと、奨学金をもらって英国に渡り、ケンブリッジ大学で研究を積むようになった。敗戦の影響もあって日本文化や日本文学に対する評価が低くなっていた時代のことゆえ、奨学金を貰うための建前上の研究対象には中国文学を選んだらしいのだが、事実上、キーンさんはケンブリッジで様々な日本文学の研究に勤しんだのだった。そして、そんなキーンさんに特別大きな影響を与えた二人の人物と出合った。一人は、源氏物語をはじめとする日本の古典文学研究やそれらの翻訳業績などで知られるアーサー・ウィリー、そしてもう一人は基礎数学者から社会哲学者へと転じたバートランド・ラッセルだった。
 アーサー・ウィリーの指導のもと、中国文学そっちのけで日本の古典文学研究に取り組んだキーンさんは、やがてケンブリッジの教官として日本語や日本文学の講義を担当するようにもなった。そんなキーンさんがある時バートランド・ラッセルに将来の身の振り方を相談すると、ラッセルはケンブリッジに残って教鞭を執り続けるようにしたほうがよいと勧めたのだという。その際、ラッセルは、学問のメッカであるこのケンブリッジ大学で教官として名を残すことは極めて栄誉あることで、それは誰しもが歩むことのできるような容易な道ではないのだと、真摯にアドバイスもしてくれたのだという。
 ケンブリッジ大に残るか否かでしばし悩んだキーンさんだったが、遂に一大決心をすると、ケンブリッジを辞していったんコロンビア大学に戻り、新たなルートを探し当てたうえで、53年に京都大学大学院への留学を果たしたのだった。もちろん、日本の古典文学を研究するためであったが、再来日のその時点では既に、和歌の二条派と京極派の違いや、近松門左衛門がその浄瑠璃作品に導入した能の要素、松尾芭蕉の門弟十人の俳風の特徴や相違点などについて詳細に論じることができたというのだから、その能力の高さや慧眼の凄さにはひたすら驚嘆し敬服するばかりである。
 やがて、当時の京都大学の研究者の紹介で、谷崎潤一郎、太宰治、三島由起夫、安部公房らをはじめとする多くの日本現代文学作家たちの存在を知ったキーンさんは、彼らの作品の素晴らしさに目を開かれ、古典ばかりでなく現代文学にも研究の幅を広げていくようになった。そして、谷崎潤一郎や三島由紀らとは直接親交を結ぶようになり、彼らの著作の翻訳にも取り組むようになっていった。その後、キーンさんは、毎年6ヶ月間はコロンビア大学で教鞭をとり、残り6ヶ月間は日本にあって古典から現代文学に至るまでの日本文学研究に没頭するという生活を続けるようになった。また、大蔵流の家元に弟子入りして狂言を学び、「青い目の太郎冠者」の異名をもものにされ、昭和30年には俳聖芭蕉を偲んで実際に奥の細道の旅をも体験されたともいうから、日本の伝統文化に対するその思い入れの深さが窺い知れる。端的に言えば、日本人以上に日本人的な方なのである。

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