(「政治的中立」という概念への疑問も)
先月まで自民党の文部科学部会が、党の公式ホームページ上において教育現場での社会科教育の政治的な中立遵守を訴えかけていた。しかも政治的中立を逸脱する不適切な教育事例を告発・投稿する場を設け、投稿者の氏名、連絡先、職業明記のうえ、何時、何処で、誰が、何についてどんな不適切な教育を実践したかを具体的に報告するよう求めていた。
当の文部科学部会は、「偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあるからだ」とその活動趣旨の正当性を唱えていたようだが、呆れるにも程がある。諸メディアの報道にもしきりに中立性を求めている現政権やその背後の支持団体の思惑の延長上にある話だけに看過するわけにはいかない。その露骨な意図の背景を、教育関係者ばかりでなく我われ一般人も真剣かつ冷静に考察してみる必要があろう。
そもそも「政治的中立」とはいったいどのような概念なのだろう。AとB二つの異なる主張があるとき、AでもBでもなく双方を足して割ったような主張を展開することが中立なのだろうか。それとも、Aの主張をまるまる受け売りすると同時にBの主張もそのままそっくり受け売りし、自らは何の判断も主張もしないことが中立なのだろうか。もしそうだとすれば、中立などという概念は単なる綺麗ごとで、およそ空虚な存在に過ぎなくなる。
さらにまた、A、B、Cの異なる主張があって、Aの賛同者が7割、Bの賛同者が2割、Cの賛同者が1割だったとした場合、中立の立場をとるとはいったいどのようなことを意味するのだろう。メディアや教育関係者らがそれらの主張を取り上げる場合、A、B,Cの各々に均等な紙面、行数、解説時間などを割り当てるのが中立ということなのだろうか。そうだとすると、Aの立場に賛同する者などからは、たった1割の賛同者しかないCの主張を、支持者が7割を占める主張と同等に扱うなんて不公平だという批判がなされるに違いない。また、諸メディアに対しては、まるで報道に主体性が感じられない、毒にも薬にもならないではないか、との苦情が殺到することだろう。だからといって、A、B,Cの主張を単純平均したような見解を勝手に報道したりしたら、不合理なうえに中途半端で無責任な話だし、そもそも何様のつもりだという批判が各陣営から飛び出すに違いない。
それではと、A、B,Cの各主張を賛同者の割合に応じて取り上げるとすれば、今度はCなどの支持者から、少数意見の軽視あるいは無視だという強い抗議の声が上がるだろう。少数意見には将来的な展望に立つと極めて有意義なものも少なくないから、そんな声にも一理はある。苦肉の策として、一種の加重平均的な発想に基づき、A,B、Cを7対2対1の割合で融合したような主張をこれ見よがしに述べたりしたら、これまた各陣営から総スカンを食うに相違ない。中立な意見や中立な報道などというともっともらしく聞こえるので、ついつい我われはその種のものの存在を信じてしまいがちなのだが、それは所詮幻想に過ぎないのであり、実のところそんなものなど何処にも存在していないのだ。
学校教育の場などにおいて、教師がその政治信念に沿った授業をすることがそんなに罪深いことなのだろうか。優れた教師というものは本来そのような志向性を持つ。現政権筋は異常にそのことに警戒心を抱いているようだが、裏を返せばそれは自らの政治信条に対する自信のなさにほかならない。より現実的な言い方をすれば、先々選挙で負けないようにするため、今から手を打っておきたいということに過ぎない。あまりにも生徒らを、さらには教育というものを愚弄した行為だというしかないのだ。
自民党やその文部科学部会はともかく、文科省以下の諸省庁関係者らが皆、それほどまでに愚かだとは思われない。多分、内心では現政権の暴走ぶりを苦々しく感じている者も少なくないことだろう。しかし、省庁の機能は、時の政権の意向に従いその政策方針を実践することなのだから、政権に対して異論を唱えることはできない。たまには辞職覚悟で政権の方針を諌めるくらいの官僚があればと思うのだが、現代社会の趨勢や現行制度の下ではそんなことなど望むべくもない。
(成長期の生徒らを甘く見るな)
歴史、文化、社会、民俗、文学、芸術などは、どれをとっても大なり小なり政治的かつ思想的な背景を持つ。それらのものから社会思想や政治思想の要素を完全排除してしまったら、その存在意義はなくなってしまう。優れた文学や芸術などに至っては社会思想や政治思想の化身そのものだといってもよい。自らの信条とは違い偏って見えるからとの理由だけで、時の為政者が教育現場から政権に不都合な社会思想や政治思想の芽をすべて排除してしまうというのは甚だ愚かな行為である。また、そんな態度は、未来を背負う初等中等教育期の生徒たちの能力をあまりにも見下したものである。それは、教育の本質やその意義をまるで理解していない政治屋どもの身勝手で恥ずべき所作にほかならない。
この世には様々な思想、理念、立場などが存在するが、それらがテロなどに直結する危険思想の洗脳教育にでも加担するものでないかぎり、教師の自主裁量に基づく一定範囲の政治思想・社会思想教育は許されてしかるべきである。教師も人間なのだから当然独自の主義主張を持っている。生徒たちは学校教育を通してそれらの多様な教師と出合いつつ、思考力や基礎的知識教養を深めていく。一人の教師が時の権力者の意向にそぐわない教育をしたから生徒がすぐさま反権力的になるものでもないし、逆にまた権力者の意向に忠実に沿う教育をしたから生徒が権力者に賛同する道を選ぶようになるものでもない。成長期の生徒というものは、一時的な揺らぎはあっても、大人が想像するほど判断力に欠けているわけでも、また特定の思想に染まりやすいわけでもない。彼らは相反する思想や相矛盾する主張の存在を学びながら思考のトレーニングを重ね、やがて自身の意見を持つべく成長を遂げていく。愚かな政治屋が安易にコントロールできるほど彼らの存在は甘くはない。
科学界ではよくあるように、ある時点では無視あるいは排斥された斬新な知見が将来的には重要となり、真の革新をもたらすことだって起こり得る。その意味でも、時の為政者が教育というものを自分好みの単一愚色で塗り潰そうとすることだけは許されてはならない。それこそは学校教育の本質を無視した、「偏向教育」というべきものだろう。
現政権やその支持政党が自らの教育政策や教育理念に真の意味で自信を持っているというのなら、学校教育現場の多様性を鷹揚な目で見守るべきだろう。かくいう私は、小中学生時代、国歌斉唱、国旗掲揚ずくめの田舎の教育環境下で成長した。そして、人並みに愛国心もあり現天皇に敬意も表するが、だからといって国旗や国歌に極端な執着心などはない。そもそも私には、国歌を賛美する現政治家の中に「さざれ石のいはほとなりて」という歌詞の意味を正しく理解している者がどのくらいあるのか尋ねてみたい思いさえもある。