(週刊朝日誌の休刊に想うこと)
1922年に創刊され、100年余にわたって世論形成の重要な一環を担ってきた「週刊朝日」が、5月末の最終号をもって休刊へと追い込まれた。紙媒体の雑誌・書籍類の読者数激減やそれに伴う広告業者の撤退、さらには朝日新聞社そのものの経営事情に起因する不可避な判断ではあったのだろうが、些か残念な想いもしなくはない。週刊朝日誌に関しては、この愚身にも、ちょっとした懐かしく忘れ難い想い出があるからなのである。
92年晩秋の頃、週刊朝日の編集長を名乗る人物から突然の電話があった。その内容は、翌年の新年号あたりから週刊朝日で連載記事の執筆を担当してもらえないかとの要請であった。まったく思ってもいなかった突然の依頼だったので、正直なところしばし戸惑いもしたのだが、穴吹史士というその人物の熱意に促され、まずは面談したうえでということになり、築地の朝日新聞社を訪ねる運びとなった。それまで朝日新聞社関係では、86年当時刊行されていた「科学朝日」誌上でコンピュータサイエンス関連の連載記事を執筆していたことがあったので、その担当者だった辻篤子・高橋真理子科学部記者あたりを介してのことかと思いもしたが、それとはまったく無関係の話だった。当時の新聞雑誌関係筋からの執筆依頼は、自らが専門としていた数理科学分野のテーマに関するものがほとんどだったので、かなり扱う対象の異なる週刊朝日からの話には内心首を捻らざるをなかった。
その前年に週刊朝日編集長になったという穴吹氏は著名な元社会部記者で、同席してもらった清水建宇・山本朋史両副編集長もまた元社会部記者だということだった。その穴吹氏が私に語った原稿依頼の背景は何とも想定外ものだったので、一瞬困惑を覚えさえしたものである。実は、その年の5月に、私は「超辞苑」(新曜社)という、極めて風刺性の高い辞書スタイル作品の邦訳書を教え子の吉岡昌紀大学講師(当時)との共訳で刊行してもらっていた。たまたま同著を読んだ穴吹氏は、本文よりも巻末の私の後書きやプロフィール文のほうが面白かったとかで、急に連載執筆の打診を思い立ちアクセスを試みたというのである。
すでにフリーランスのライターとなっていた私は、分不相応とは思いながらも、結局その要請を受け入れ、「怪奇十三面章」というコラムを執筆することになった。毎回ごとに文体を変えるという、空中サーカス紛いのとんでもない離れ技を求められ大変な苦労もしたが、ともかくもその責務を果たすことができたのは幸いだった。また、それが契機となって、穴吹史士氏とは朝日新聞の仕事とは関係なく個人的親交を結ぶようにもなったし、清水建宇・山本朋史両氏とも後々まで交流をもつことができるようになったものである。
週刊朝日での私の初原稿は、当時の花形女優・宮沢りえの姿が表紙を飾る93年の新年増大号に掲載された。池澤夏樹、ナンシー関、田中康夫、東海林さだお、船橋洋一、小池百合子、佐藤道夫、秋山仁、松尾貴史、栗本慎一郎、司馬遼太郎といった錚々たる執筆者面々の中に埋もれるようにして登場したわけで、赤面の至りでもあった。穴吹氏が編集長を務めていたそんな週刊朝日誌の絶頂期時代、同誌や朝日新聞の論調を鋭く批判することにより、その対抗馬として存在感を高めつつあったのが、花田紀凱氏が当時の編集長を務めていた週刊文春にほかならない。菊池寛により1959年に創刊されたその週刊文春誌が、近年、「文春砲」という異名のもとにその社会的存在感を一段と高め、毎号の宣伝広告が朝日新聞紙面にも大々的に掲載されるのに対し、かつての本命・週刊朝日が没落し、遂には休刊の憂き目に瀕したのは皮肉な事態としか言いようがない。
(穴吹史士元編集長を偲びつつ)
互いに対峙し合った穴吹史士・花田紀凱両週刊誌編集長が辿ったその後の足跡はなかなかに興味深い。週刊朝日編集長として大きな業績を残した穴吹氏は朝日新聞出版局次長に昇進した。一方の花田氏は週刊文春誌からマルコポーロ誌の編集長へと転任したが、同誌に掲載したナチスによるホロコースト関連の記事が厳しい社会的批判を被って、文芸春秋社退社のやむなきに至ったのである。ところが、そんな花田氏に対して救いの手を差し伸べたのが他ならぬ穴吹氏で、それは「敵に塩を送る」という諺を地で行く振舞だったのだ。
穴吹氏は自らが発行人になり、編集長に花田氏を迎えて新たな一般誌を創刊しようと画策した。だが、リベラル派の多い朝日新聞社内での花田氏に対する批判は甚大だったため、一般誌創刊企画案は敢え無く挫折し、仕方なくその代替として二人が創刊を試みたのが女性誌「UNO!」だったのだ。しかし、「UNO!」誌の刊行は大きな赤字をもたらすことになり97年には廃刊に追い込まれる。その責任を取るかたちで穴吹氏は電波メディア部局へと左遷され、花田氏のほうは朝日を離れて、再び二人は別々の道を歩むことになった。
穴吹氏が左遷された当時の朝日新聞社電波メディア局は、文字通り閑古鳥の鳴く部署であった。まだパソコン通信時代がインターネット通信時代へと完全移行する前のことで、パソコン通信ユーザーは全国でも1万5千人前後に過ぎなかったからである。もうやることなどないと落ち込む穴吹氏の気分転換を兼ね一緒に出向いた箱根の温泉宿で、私はパソコン通信に関する自らの経験談を披露した。無論、同氏を励ます意味があってのことである。今では、日々進化する情報通信界の最後尾をのろのろと歩む身であるが、かつてのパソコン通信時代には先駆的実験試行者の一人であった私は、現在のチャットやLINEの原型となるシステム,掲示板システムなどの実践的活用経験を積み重ねてきていた。そこで、93年にSTRENGERというハンドルネームで執筆した著作「電子ネットワールド~パソコン通信の光と影」(新曜社)を提示したりしながら、インターネット時代の到来に伴う電波メディア部門の将来性と重要性について具体的に穴吹氏に説明を試みた。
幸い、穴吹氏は、自らが企画運営兼編集責任者となってAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)というコーナーをウエッブ上に立ち上げてくれたため、私は「マセマティック放浪記」というコラムを担当し、以後10年近くに亘って毎週ごとに連載記事を執筆するようになった。私とタッグを組んで同じ曜日を担当したのは、「メディカル漂流記」の筆者で作家の故永井明氏であった。その後、穴吹氏周辺の様々な人物がキャスターとして登場するようになり、2000年代に入るとAICへのアクセス者数は100万人、200万人と一気に増大を遂げて大成功を収め、穴吹氏は大いに名誉を回復するに至った。
だが、その穴吹氏は2010年に癌のため63歳で他界し、AICコーナーのほうも自ずから役目を終えた。亡くなる間際まで親交を持ち続けた穴吹氏には印章彫りの特技があり、私の名を篆書体で彫り刻んでくれた象牙印は大切な形見の品となっている。天上界のそんな穴吹氏の御霊は、事実上の週刊朝日廃刊の経緯をどんな想いで眺めていることだろう。