時流遡航

《時流遡航313》 日々諸事遊考(73)――しばし随想の赴くままに(2023,11,01)

(人間というものの宿命的本質について考える―③ )
 その知人作家が半ば首を傾げるようにしながら私に向かって呟きかけてきた一言とは、「麻原教祖は空中浮揚できるんだってさ。まさかとは思うんだけど、当人やその証言者の話によるとまったくの嘘でもないみたいなんで……」というものだったのだ。その瞬間の知人の表情には少なからぬ困惑の色が浮かんでいた。著名な論客としてのその冷静さを常々熟知してきている身としては、まるで想定外の事態に戸惑いを覚えもしたが、ともかくも、すぐさま彼の一瞬の心理的動揺やそれに起因する一時的な迷妄を静かに宥め諭すような対応をとった。ただ、その言葉の非科学性を真っ向から糾弾するような言動はあえて控え、そのうえで客観的なこちらの思いを述べ伝えるようには心掛けたのだった。
「そうだよな、そんなバカなこと有り得ないよなぁ、僕のほうがどうかしていたんだ……」――半ば苦笑するような表情を浮かべた知人が、低くそう呟きながら我に返るのに時は要らなかった。だが、私は、彼のこの束の間の迷いを、愚かなこととして一笑に付すわけにはいかないと思いもするのだった。人間というものは常々誰しも自分だけは詐欺師に騙されることはないし、オカルト的な宗教に取り込まれることもないと自負している。なかでも科学を信奉する人々などは、自分だけは世の非科学的な言動や事象の類に惑わされることは絶対ないと過信さえもしている。しかし、宿命的にその「自立」や「自律」に限界の伴う人間の精神機能というものは、それほどに完璧なものではないのである。
 作家のその知人は、当初それなりにはまともな一面も持つ宗教にも見えた初期のオウム真理教を、外から眺めて独断的に批判するのではなく、実際にその核心部に分け入り直接取材したうえで、その実態を客観的に講評しようと考えたのであった。オウム真理教の中枢メンバーには有名大学で科学や医学の研究に携わったりしているその道の専門家らも存在していたし、若くて熱心な男女の信者中には知的な人物も数多く含まれてもいた。また教祖をはじめとする主要指導者らの具え持つカリスマ性にもひとかたならぬものがあったのだ。カリスマとは、人々を心酔させ従わせる超人的な資質や能力、さらにはその種の資質を具え持った特異な人物のことを言う。ドイツの著名な社会哲学者マックス・ウェーバーが、他者支配の三つの類型として合理的支配、伝統的支配とともに指摘したものこそは、ほかならぬカリスマ的支配なのである。マックス・ウェ―バーによれば、カリスマ的支配においては、支配者の持つ超能力(他者を操る天性の特異能力)によって支配者は正統性と共に被支配者からの絶対的な支持獲得できるのだという。釈迦も、キリストも、マホメットも、そのようなカリスマ性の持ち主であったことは言うまでもないだろう。
 中立的な取材のためであったとはいえ、そんな新興宗教集団の中枢部に深く入り込み、そこに属する特異な人物らと深い心的交流を図ろうとすれば、常々いくら自主性や精神的自立性の高い人物であったとしても、まったく影響を受けないということは有り得ない。自らは意識することもないままに、一種の集団催眠状態に導かれたとしても決して不思議なこいとではない。他人の愚行や妄想を嘲笑することは容易だが、一個の人間としての自らの心的自立性の限界を熟考するなら、知人が置かれた状況を愚かだったと断じることなどできはしない。この愚身と接触することによって、直ぐさま彼が正常な判断力を取り戻したことは幸いだったが、オウム真理教の世界から見れば、我々のほうが正常な判断力を欠いた存在であったことは間違いない。先の大戦中における多くの日本人の精神的かつ思想的な迷走を顧みれば、個々の人間の正しい判断力の限界というものがおのずから浮かび上がってくるだろう。現代の視点から当時の日本人の国政に対する盲従の態度を批判することは容易だが、むしろそこにある人間の理性や知性というものの機能の限界を認識し、将来非常事態が生じた際などに的確な自主判断を行うための参考にすべきであろう。
(ある精神科医の話を想い出す)
 その知人作家との一件を介して、私は昔親交のあったある精神科医のことを想い出したものだ。その精神科医は人格的にも医療技術的にも極めて優れた人物で、長期入院者も多いある地方の有名な精神病院の院長を務めていた。その医師の話によると、精神科の場合、患者の方々に真摯に対応するには、極力自然体をもって相手の心的言動に向き合うことが不可欠だということだった。そしてそのためには、医師も患者も同じ生活の場で、共通の話題や同一規範のもと、ごく普通に接し合うことが重要だとの話でもあった。
そんな一連の話の中で特に興味深く感じたのは、自分のような精神科医師が様々な入院患者と長期にわたって自然な交流を続けていると、医師が患者に精神的な感化をもたらす一方で、医師側のほうも無意識のうちに患者から感化を受けることになるものだという話だった。そんな状況が一段と進むと、患者の病状をはじめとする諸々の対処事項等に関して、医師である自分の見解や主張が正しいのか、患者側の見解や主張が正しいのか判断できなくなってきたりもするのだという。換言すれば、どちらが医師でどちらが患者なのかわからなくなってくるような事態が折々に生じたりもするのだということなのだった。
そこで、意識の高い精神科の医師というものは、複数の仲間同士で常に連絡を取り合い、一定期間ごとに相互に相手の精神状態を診断し合うことによって、心身的バランスをとるよいに努めてもいるのだそうである。一般的には客観的な精神性を保っていると信じられている優れた精神科の医師でさえもそのような状況なのだから、通常の人間が客観的で自立した心的状態を維持し続けることが如何に困難であるかは推して知るべきではあろう。
その医師からそんな話を聞いた後日のこと、参考までにというわけで一日だけその精神病院の解放病棟に体験入院させてもらったのだが、今振り返ってみてもそれは不思議な経験だった。壁面に一流画家などの作品も配置されているオープンスペースの解放病棟内では、比較的軽症だという数々の入院患者が自由な生活を送っていて、折々その中に医師と思しき人物が混じり込んできては自然体で彼らと向き合い、楽しそうに会話を交わしているのだった。私もそれにならって、何人かの入院者と思しき人物にさりげなく話しかけてみたところ、皆さんごく自然に私との対話に応じてくれ、結構話も弾みはした。
驚いたのは、それらの人々の中には文芸や芸術に詳しい人や科学の世界に精通した人などがいて、こちらのほうがいといろと教示を受けているような感じにさえもなったことだった。とてもそこが精神病院の長期入院者用解放病棟内だとは思われないような状況で、もしそうだとすれば、自分ほうが入院患者なのではないかと錯覚してさえしまいそうな有様だった。人間というものの認識力が如何に不完全なものかを痛感させられた次第である。

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