時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(13)(2015,08,15)

(愚かさを宿命として背負う人間社会)
 南京事件はなかったと主張する人々もけっして少なくない昨今のことではあるが、もしその通りだったとすれば、南京事件があったとする主張は中国側が日本に報復するために捏造した虚偽の宣伝、ないしは一部の国賊的日本人とやらによる妄想だということになるのだろうか。もしも自分が中国人であったと仮定し、冷静になってその立場から考えてみると、どんなに憎い日本人に報復するためだとはいっても、実際に存在しなかった大虐殺事件をデッチあげるなんていうことはきわめて不自然で無理な話である。たとえそんな根拠のない主張をしてみても、それが国際的に通用するなどとは思ってもみないことだろう。あの「千代」の親父さんの重たい言葉や凄惨な写真に待つまでもなく、南京事件はあったと見なすのがごく自然の流れだろう。
 むろん、殺害された人々の数についての推定値が日本側と中国側との間で大きく食い違っているという問題はあるだろう。正確なデータや記録が残されていない以上、加害国側は死者の数をなるべく少なく見積もり、逆に被害国側はその数をなるべく多く見積もろうとするだろう。残虐行為の状況についても日本側は過小に、中国側は過大にアピールしようとするだろう。しかし、南京事件が現実のものだったかどうかという議論に関するかぎり、死者数の問題や残虐度についての両国の見解の相違は二義的なことに過ぎないはずだ。
 数学の証明ならば百の事象のうち百すべてが成り立つことが必要だが、社会事象における証明では百のうち七十も成り立てば十分と見なすべきだろう。関係事象を百パーセント立証できなければ証明されたとは言えないとする数学的な考え方を社会事象の証明に適用するのは、所詮、無理かつ無意味なことに過ぎない。社会事象に関しては、二割や三割程度の未解明、未証明の事象があるからといって、問題となっている物事の全体を否定するようなことは慎むようにしなければならない。ましてや、たったひとつでも成り立たない事例があるならばその命題は不成立とする数学的な論法を、自らに不都合な物事の真実を隠す意図を秘めて社会的事象の存在否定証明に適用するなどということは、証明論理の悪用以外の何物でもないと言えるだろう。
 人間というものは誰しもが負の一面を背負っている。非倫理的行為や誤謬を犯さない人間など皆無である。ましてや、そんな人間の集合体からなる社会や国家が絶対的に正義な存在などでありえようはずがない。元々社会や国家というものは数々の灰色な部分を秘め持っているものなのだ。己の負の部分は負として潔く認め、そのうえで相手の持ち出す無理難題や過度の責任追究には異議を唱え、的確に国際的外交を進めていくことこそがこの際必要なのではないだろうか。
(軍人だった義父の深い苦悩)
 いささか私的な話になって恐縮だが、戦時中の中国絡みのことを書いたついでなので、この際、義父の壮絶な体験談についても述べさせて戴きたい。前置き部が少し長くなるが、お付き合い願えれば幸いである。
 旭川出身で北海道の自然をこよなく愛した義父は、旧大蔵省財務官としての仕事を退くと、自ら望んで自然に恵まれた北海道弟子屈町の地に移り住み、以前そこにあった国家公務員共済会保養所「大鵬荘」の支配人を務めていた。かつては旧陸軍士官学校出身の軍人で近衛師団に属したこともある義父だったが、権威主義的なところなどはまったくみられなかったばかりでなく、他人に対する思い遣りも深く、思想的にもきわめてリベラルな人物だった。権威ある者の横暴さや理不尽な振舞いには敢然と立ち向かい、弱者のためには己の不利益や不都合を顧みず真心のかぎりを尽くし、しかもそれについて他言するようなこともまずなかった。
 弟子屈町出身の名横綱大鵬にちなんでその名前がつけられたという大鵬荘の宿泊客のなかには、国家公務員上級官僚や国会議員としての地位や権力を鼻にかけ、従業員や他の一般宿泊客に対して横柄極まりない態度をとる者なども少なくなかった。そんな時、義父は毅然として振舞い、けっして彼らを特別扱いしたりするようなことはなかった。義父に言動の非をたしなめられ、お前の首などすぐにも飛ばしてやるといきり立つ客を容赦なく叩き出してしまうようなこともあった。
 もっとも、そんな義父の気質が義母や私の妻、さらにはその弟妹らにとって幸いしたかというと、必ずしもそうとばかりとは言えなかったようだ。たぶん、義母や私の妻をはじめとするその子供らは、見えないところで大きな皺寄せをうけ、それがもとで様々な苦労もしたことだろう。善しにつけ悪しきにつけ、ある人間がなにかしらの信念や理念を貫いて生きようとすれば、必ずやどこかにその皺寄せが生じるものだからだ。それはまた、取るに足らないものながら、信念のかけらのようなものだけは心に抱いて生きている我が身にも当てはまることだった。
 東京で妻と知り合い、結婚を念頭に置いて付き合い始めた頃のこと、私は、仕事で上京中だった義父との初の対面を実現した。ごくありふれたお店の一隅で義父はビール瓶と空のグラスを前に置き、飲めない私はジュースのグラスを前にして無言のまま向かい合っていた。静かだが心の奥を射抜くような鋭い視線で私の目を見つめていた義父は、やがて自分でグラスにビールを注ぐと、それを口にしながら、「本田君、一度北海道に来たまえ、家内も待っているようだから」と一言だけ短く口を開いた。私はは近親者を皆失った身で、研究者としての将来の展望などもまるで立たない情況ではあったのだが、義父はそれ以上こちらの身上やその他のことについて詰問したり詮索したりするようなことはしなかった。
 妻との結婚後はもちろん何度も弟子屈を訪ねたが、その度ごとに義父は自ら車のハンドルを握って色々な場所へと私を案内してくれた。地元の人だけが知る屈斜路湖や摩周湖の絶景スポットは言うまでもなく、知床半島や根釧原野、釧路湿原、さらには阿寒、美幌、北見一帯にまでその範囲は及んだ。山菜や茸採りに連れて行ってくれることもしばしばだった。そして、そんなふうに私を案内する傍らで、義父は、大陸で自ら体験した戦時中の凄惨な出来事などについて、どこか重たい口調ながらも、包み隠すことなく話してくれたものだった。こんな話は本来地獄まで持っていくべきことなのだがとも呟きながら……。職業軍人という立場のゆえだったとはいえ、義父もまた、消し去ることのできない戦争の傷跡を心中深くに秘め隠して生きる人間の一人であることを、その時私は初めて知ったようなわけだった。

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