時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(16)(2017,09,15)

(今となっては貴重かつ意義深い想い出の数々)
 広いドライブウエイに沿って立ち並ぶ店々や建物はすっかりアメリカナイズドされていて、まるでカリフォルニアあたりの海岸線を走っているかのような錯覚を催すほどであった。浦添、宜野湾、北谷(ちゃたん)を過ぎ嘉手納市街に入ると、大きな円環路から異なる方向へと4、5本の車道がのびる嘉手納ロータリーが現れた。その周辺は大きな建物が立ち並ぶ市街地になっていた。本土のどこにでもある駅前ロータリーなどはまるで違い、ごく自然な走行を維持しながら車の方向転換を可能にしてくれるとても機能性の高い大規模ロータリーで、欧米的な発想で造られたことは一目瞭然であった。この那覇ロータリーの原型が沖縄本島上陸直後の米軍によってごく短期間で建造され、現代に至るまでほぼそのまま使用されて続けているという事実を知ったのは、太田昌秀著「これが沖縄戦だ」を通してであった。その時点では、那覇ロータリーの由来について私はまだ知らないままであった。
 夕刻が近づいてきていたが、嘉手納を通りかかったついでなので米軍基地を一目でも眺めておこうと思い立ち、まずは基地の北側にまわってみることにした。なるほど、4000メートルはあろうかという大滑走路が2本、真っ直ぐにのびている。遠くのほうには駐機場があって戦闘機や輸送機らしい機影が散見された。
 突然に背後から轟音が響いてきたかと思うと、黒灰色のデルタ翼をもつ怪鳥のようなジェット機が頭越しに滑走路へと降りていった。その異様な機影は何とも言い難い不気味さを秘めていたものだ。しばらくすると、今度は巨大なアホウドリにも似た四発の大型機が北東方向へと飛び立っていった。私が基地周辺にいたのは精々30分くらいのものだったが、その間にも様々な軍用機が地面を揺るがすような響きをたてて離着陸を繰り返していた。米軍の極東軍事戦略にとってこの基地がどんなに重要な位置を占めているのかは、それらの軍用機の動きを垣間見るだけでも十分明らかなことだった。
 いったいこの基地の奥では、如何なる指揮系統のもと、日々どのような戦略が立案遂行されているのだろう――そんな思いが一瞬脳裏をよぎったりもした。本土の横田基地などもそうだろうが、おそらくは地下深くに核攻撃にも耐え得る一大シェルターがあって、その中枢部を占めるオペレーション・センターの超大型スクリーンには、極東全域の飛行中の航空機や活動中の主要艦船の位置などがリアルタイムで表示されていたに違いない。
 嘉手納基地周辺から再び国道筋に戻った私は、沖縄戦のときに米軍が真っ先に上陸したという読谷(よみたん)村を過ぎ、恩納村にさしかかった。ムーンビーチ、万座ビーチ、瀬良垣ビーチ、インブビーチと美しい海岸の続くこの一帯は沖縄随一のリゾート地となっており、その時代、本土ではまだ見かけることのなかった階段状テラス構造の高級ホテルがずらりと立ち並んでいた。そして、開業して間もない日航系の高級リゾートホテル、サンマリーナもその一角を占めていた。まだバブル経済の絶頂期を少し過ぎたばかり頃のこととあって、沖縄にも大量の本土資本が流入し、観光開発にも一段と拍車がかかっていたのである。
 人工的ではあるが、なんとも蠱惑(こわく)に満ちみちた風景の中を進んでいくと、万座ビーチが近づいてきた。左手にハワイかマイアミの高級リゾートホテルをも彷彿とさせるような豪奢な造りの万座ビーチホテルが見えた。私は翌日の金環食をそのすぐ近くの万座毛で観察するつもりであった。サンセット・ロードという呼称を冠しても決してその名に恥じることのない恩納村西海岸の道をなおも走り続けながら、私は初めて目にした沖縄の海の景観美にひたすら酔い痴れていた。だが、それにもかかわらず、その一方で、あの運転手の姿とその言葉の裏に秘められた深い思いがどうしても気になって仕方がなかった。沖縄の幻想的な光景の背後に潜む歴史の陰影を学ばずにその風光の明媚さのみを耽美することに、本能的な罪悪感を覚えはじめていたからである。 
 せっかくの旅なのだからその恩恵を素直に楽しんでしまえばよさそうなものだったが、どうしてもそれができなくなりかけてきていた。高校を卒業するまで隣県の鹿児島で育ちながら、私はあまりにも沖縄のことを知らなさすぎた。「ひめゆりの塔」をはじめとする沖縄関係の映画や戦争報道写真はそれなりに見たことがあったけれども、そこで見聞きしたものが自分にとっては単なる知識以上の意味を持つようなことはなかったのだ。そして、そんな思いが募った結果、もっと深く沖縄の歴史、なかでも戦時中の沖縄の姿を知るべきだと自省しはじめ、その手立ての一環として宿泊地の奥間ビーチへと向かう途中で買い求めたのが、ほかならぬ沖縄戦史特集本「これが沖縄戦だ」というわけだったのだ。
(新たな決意で沖縄本島を廻る)
その折の沖縄訪問の本来の目的は、当時の「科学朝日」誌や日本航空広報部からの依頼を受けていた金環食に関する記事執筆のための取材であった。だが、金環食観測当日の午後から、私は、海岸線や内陸部を問わず沖縄本島全域を隈なく訪ね廻って、琉球王国だった時代の沖縄の歴史や大戦中の悲惨な沖縄の実態、さらにはそれに続くその近現代史について学び直そうと、遅れ馳せながら決意を新たにしたような次第だった。
 30年を経た今も、私はその折の一連の出来事に深く感謝している。那覇空港到着直後のあの衝撃的な一件がなければ、翌日の金環食を乾いた科学の目のみで追いかけ、本土のバブル資本によって演出された沖縄の表の美しさだけに見惚れ、南部の戦跡や戦史資料館などを別の惑星の出来事であったかのように眺めただけで戻ってきていたに違いないからだ。奥間ビーチに向かう途中で昼食のために立ち寄った店で、一冊の本「これが沖縄戦だ」に私の手を導いたのは、もしかしたらあの運転手の執念だったのかもしれない。
 まるで何物かに憑かれでもしたかのように沖縄本島を徹底取材し東京に戻った私だったが、その時の諸々の経験談を実際に筆に托したのは、さらにそれから11年を経た99年のことである。その頃、朝日新聞にはAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)というウエッブ上のコーナーがあって、私はそこで「マセマティック放浪記」というコラム欄の執筆を担当していた。そして、そのなかで全12回にわたって、「ある沖縄の想い出」というタイトルの回想記事を連載した。その手稿は書籍化することなく現在に至っているが、当時のAICの読者の多くからそれなりの評価も受けていたし、無能なこの身にしてみれば力作のひとつだったと自負もしている。
 もしも関心がおありのようなら、ネット上で「本田成親」を検索してもらうと、「マセマティック放浪記バックナンバー」という項目が現れる。その中の99年5月12日から7月28日にあたるところに当該記事が収録されているので、宜しければご笑覧願いたい。

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