時流遡航

《時流遡航》エリザベス女王戴冠式と皇太子訪英(7)(2014,12,01)

 女王の戴冠式も間近になったある日のこと、皇太子はスコットランドの名門貴族の館へと招待されたのだが、その折にちょっとした椿事が起こった。色彩豊かな民俗衣裳で名高いスコットランド地方の貴族の間ではキルトスカートの着用が正装とされている。当然、その貴族は皇太子を迎えるに当たってキルトスカートを身に纏っていた。スコットランドの伝統に従えば、キルトスカートなるものは、パンツをはかず、自然なままの姿のうえにそれをぐるぐると巻きつけるのが正規の着用法だとされている。むろん、当日も、その貴族は、スコットランドのそんな伝統方式にのっとってキルトスカートを身に着けていた。
 息を呑むほどに重厚で華麗な装飾の施された応接室で、正装に身を固め、満を持して遠来の日本皇太子を迎えたホストの貴族は、固い握手を交わしたあと、にこやかな笑みを浮かべながら自分の椅子に腰をおろそうとした。皇太子と貴族とが握手を交わしている脇ではカメラマンが二人の対面の様子を写そうとカメラを構え、何回も断続的にシャッターを切っていた。想わぬ事態が発生したのはその直後だった。腰をおろしかけた貴族のキルトスカートの裾が運悪く肘掛椅子の突起部にひっかかり、スカートがすっかり捲(めく)れあがってしまったのだった。皇太子の面前にその貴族の生まれたときのままの姿が晒さらされてしまったことは言うまでもない。しかも、偶々ではあったのだが、その瞬間にカメラのシャッターが切られるという最悪の事態になってしまったのだった。
 しかしながら、そこは帝王学を修めてこられた皇太子、視線を逸らすこともなく、また顔色ひとつ変えることもなく、泰然としてその場に対応されたのだった。一方のスコットランド貴族のほうもまた、少しも取り乱したところなど見せず、平然としてキルトスカートの裾をもとに戻すと、何事もなかったかのように皇太子のほうに顔を向けた。そして二人は再び穏やかな笑みを湛えながらこころゆくまで歓談に耽ったのだった。
 そんな様子を傍で眺めながら、石田は、真の意味での育ちの良さとはこういうものなのかと妙に感銘を覚えるのだった。自然体で相手に接し、万一相手に儀礼上の重大な過失が生じたとしても、それが悪意に基づくものでないかぎり、動揺した表情ひとつ浮かべずにそれを温かく見過ごす。過失を犯した当事者のほうも、必要以上の弁明をしたり、変にお詫びをしたり取り繕ったりなどはぜずに、悠然と振舞う。よくよく考えてみると、このような場合にはそれが最上の対応策なのであったが、現実には、そんなことはなかなか一般庶民にはできることではないのだった。
 その出来事の際、石田は、英国をはじめとするヨーロッパ諸国の徴兵検査の様子についてかねて耳にしていた話を想い出しもした。貴族階級のような上流階層出身者は、徴兵検査の時でも素っ裸になることを少しも恥ずかしがらないという。彼らは幼い頃から衣服の着替えや身体の清浄を使用人などにやってもらっているので、少しも人前で裸になることを厭わない。それに対して、一般庶民のほうは徴兵検査で裸になったとき、必ず前部を手で覆い隠す。もちろん、それは、他人の前で裸になった経験がほとんどないからだというのであった。そして、皇太子とスコットランド貴族の少しも慌てぬ対応振りも、ひとつにはそのような背景が一役買っていたのかもしれないと考えるのであった。
 石田はまた、ヨーロッパの上流階級の女性たちが裸体を晒すことに割合平気なのも、案外そんな理由があってのことなのかもしれないとも思うのだった。そのため芸術表現などにも自然にその影響が及び、男女の裸体像や裸体画が頻繁に制作されるようになったのではないか、とくにギリシャ時代の彫刻に裸体像が多いのは、その頃の貴族らが裸になるのを少しも厭わなかったからなのではないかなどと、どんどん彼の想像は膨らんでいくのだった。皇太子を案内した大英博物館やナショナル・ギャラリーにそんな裸体をモチーフにした作品の数々が展示されていたのも、そして、若い皇太子が人間味溢れる表情でそれらの作品を眺めておられたのも、ある意味自然なことのように感じられてならなかった。
(「背広」という言葉の語源は)
 石田は皇太子を案内しながら折々その足元に目をやり、さすがに素晴らしい靴を履いていらっしゃるなと心中で感嘆したりもした。特別誂えのものと思われる皇太子の靴と自分の靴との違いは一目瞭然であった。もちろん、靴ばかりでなく、皇太子のスーツもまた超一級品であった。皇太子はロンドンの高級紳士服専門店街のあるセヴィル・ロー(Seville Row)を訪ね、何着かのスーツを注文もされていた。セヴィル・ローの高級紳士服店で作られるスーツは、王族や貴族、政治家、大実業家など、特別な地位や階層にある人々でなければとても手の出せないようなしろもので、石田のような者などには文字通り高嶺の花としか言いようのない存在だった。 
 このセヴィル・ローという通りの名は、「背広」という日本語の語源にもなったのではないかという見方があったが、石田自身もその通りではないかと考えるようになった。セヴィル・ロー仕立てのスーツを着て日本へとやってきた英国人が、これは何というものかと訊ねられ、セヴィル・ローで作ったスーツだと言うつもりで、自慢げに「セヴィル・ロー」と答えた。そして、その言葉を聞いた日本人のほうは、それは「セビロ」というものなのだと早合点し、以来「背広」と呼ばれるようになったというようなことは十分にありうる話であった。他に、民服という意味を込めたシヴィル・スーツ(Civil Suits)のシヴィルが転じて「背広」になったとする説などもあるようだったが、石田には「セヴィル・ロー」説のほうがずっと説得力があるように思われてならなかった。
 戴冠式が近づくにつれてロンドン市街にも装飾の手が加えられるようになった。元々ロンドンの街並みというものは全体的にくすんだ色をしており、どう贔屓目に見ても明るく爽やかな感じはしなかった。そのためもあってか、世界中が注目する世紀の一大絵巻を前にして、女王のパレードの行われる大通り沿いの街並みを明るい色に塗り替え、暗い印象を払拭しようという計画が持ち上がった。そして、そのために選ばれたのがなんとピンクやそれに近い色彩なのだった。女王をはじめとする英王室の女性らの肌が美しいピンクをしているのはよく知られたことだったし、そうでなくてもピンクという色は英国民の肌の輝きの象徴、ひいては英国民自体をも意味する存在であった。さらにまた、たとえ一時的なことではあっても、ピンク色を用いることによって、地中海沿いの南欧各地にみるような明るい雰囲気を醸し出すことができればという思惑なども働いていたようだった。

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